2016年9月6日
akira's view 入山映ブログ ロベルト・デヴェリュー
バイエルン歌劇場の演目第二弾はロベルト・デヴェリュー。ただし,今回の公演に関する限り「エリザベッタ」と改題した方が良い位、グルウ゛ェローウ゛ァの一人舞台の様相を呈した。この凡庸なオペラが彼女の登場によってきりりと引き締まる。例によって、この公演も3人ほど当初の配役と異なった代役(原発騒ぎである)が歌った。タイトルロールのテノールはアレクセイ・ドルゴフといったが、これは残念ながらいま一つ。後に述べる演出のせいもあるかもしれないが、二人の女性を苦悩の底に追いやるほどの魅力がどこにも感じられない、というのが致命的だろう。後の代役はノッッティンガム公爵のチェッコー二。召使い役のボルチェフ、それぞれ無難にこなしていた。
ただ、これはもうグルウ゛ェローウ゛ァに尽きる。考えてみれば彼女に最初に出会ったのは70年代の終わり、NY在住中にMETのツェルビネッタを聴いて度肝を抜かれた時だから、30年近い昔の話だ。それが、よくある「お年を考えれば」という割り引き一切なしで堂々たるディーウ゛ァを現在も勤め上げているというのだから、これは脅威を通り越して奇跡に近いと言ってよいのではないか。かつてキューバの至宝アリシア・アロンゾが70歳を超えやはりMETで踊るのを観たが、さすがにぴたりとと止まる筈の動きがかすかに揺れるのをとどめられなかった記憶がある。オペラファンとして、このソプラノの全盛期をともに生きた幸せを感じる。
例によってクリストファー・ロイなる演出家の舞台は全く感心しない。先にエリZベス女王が女社長と書いたのは誤りで、単にブリーフケースなどを持った現代風の出で立ちということだが、これが演出者の言うように作曲者の意図を現代に生かすことに繋がるとはどうしても考えにくい。処刑前のデウ゛ェリューのシャツとパンツを脱がせて下着一枚にしてみたり、ラストシーンでエリザベスに鬘をかなぐり捨てさせたり、サラの手足を縛って舞台片隅に寝っ転がせたり。全く演出家の独りよがりとしか思われないような目障りな場面の続出である。
日本の伝統芸能と言えば歌舞伎。その舞台に役者が背広を着て現れたら観客の反応はどうだろう。「よくぞ伝統芸能を現代に共存させてくれた」と言うとは金輪際考えられないではないか。妙に西欧崇拝で前衛かぶれが散見されないでもない日本の芸術界だが、肝心のところだけは、二流・三流のあちらの演出の影響を受けないでほしいものだ。
2011年 10月 02日