2016年9月14日
akira's view 入山映ブログ シルヴィ・ギエム
福島原発の事故以後、多くの芸術家が訪日公演を取りやめた。中には放射能への恐怖をはっきり理由に挙げた人もいれば、他の理由にこと寄せた人もいる。(9.14「カルメン」)その一方では、キャンセルした人の代役を喜んで引き受けたり、中にはギャラを義援金に充当してくれた人もいた。シルヴィ・ギエムは予定されていた公演の他に、チャリティ・ガラを岩手で開催したいと、たつての希望で実現した他に日本縦断のHope Japanのシリーズ公演を実行する。日本人にとって忘れてはならない芸術家だというべきだろう。
そのシリーズのうちの一つ、東京バレー団と共演の公演に出かけてきた。ギエムはマノンの一幕と「田園の出来事」。東京バレー団が例によって見事なアンサンブルを数演目にわたって披露、という趣向である。「田園の・・」はツルゲーネフの原作によるという、まあ他愛もないバレーなのだが、このところドイツ流の妙な前衛的(?)オペラの舞台で食傷気味だったから、アシュトンの舞台は正統派も正統派、全く安心して観ていられたことだった。それにつけてもひとりよがりで何でも出来るオペラ演出に較べて、バレーのコレオグラファーというのは、バカなことは出来ない仕組みになっている。制約の多さは、かえって質の高さを保証する、などという一般論に敷衍出来るかどうか知らないが、そんなことさえ思わせるオペラ演出の昨今ではある。
ギエムの魅力については今更語ることでもないが、今回の演目は必ずしも彼女の魅力を十二分に引き出せるものではなかったように思う。にもかかわらず、彼女が舞台上に現われると、それだけで空気が一変する。ディーヴァというのは芸術のカテゴリーを問わず共通なんだなあ、との感あり。そんな彼女が、岩手公演には自ら「ボレロ」を選んだとか。岩手の観客は二重の意味で得難い経験を持つことになる。
東京バレー団は「白の組曲」で一糸乱れぬアンサンブルを見せる。肉体的にハンディのある日本人バレー団が世界で卓越する為にはアンサンブルだ、と主宰の佐々木さんはおっしゃっていた。一糸乱れないだけならあの薄気味の悪い北朝鮮のマスゲームも同じことだが、そこの「皮膜の間」の違いこそが芸術とそうでないものを分つ。そんな紙一重を舞台演出についても認識を共通させることが出来たらどんなによいか、と思うのだが、これは無理というものかもしれない。
2011年 10月 26日