2016年9月26日
akira's view 入山映ブログ 近頃の若いもの
もう10年以上も前のことだろうか、「近頃の若いものは」という永遠のテーマを巡って、いくつかの話題に花が咲いた。殆どは忘れてしまったのだが、一つだけあまりおかしかったので記憶しているのが、さる上場企業の人事部長をしていた友人が、会社のあるセクションで恒例のお花見(旧き良き時代である)をすることになって、新入社員にござを持って場所取りにゆかせたという話を始めた。後刻一同が予定の場所に行ってみると、本人の陰も形も見えないのみならず、ご当人は翌日欠勤した。どうしたのだろうと思っていたら、その翌日当人の母親が「人事部長にお逢いしたい」と現れたという。
何事かと思って面会してみると、ほとんど血相を変えて「うちの息子は小学校以来優秀な成績でxx大学を卒業して、難関と言われる御社に就職した。それを花見の場所取りをさせるとは何事であるか。本人は余りのことに呆然として寝込んでいる。」とまくしたてたという。一同笑い転げた、まさかね、おい本当の話かい、というあたりでオチだったように記憶するのだが、先日NHKを観ていたら、電車の中に会社の書類の入ったカバンを忘れた新入社員に「今後は気をつけるように」といったら、とたんに欠勤し始めて、医者の曰くは鬱病なのだという、というお話が大真面目で取り上げられていた。
例によって、評論家やら識者やらが大真面目な顔で現代の若者の精神構造を論じたあげく、これは深刻な社会病理現象だ、とのたまう。過保護もいい加減にしてはどうか、というのが筆者の偽らざる感想だ。悩みを持たない人生なんていうものは考えにくいし、その発生を予防したり、解決策を社会全体で考えることが重要な場合もある。しかし、その閾値というか、問題のレベルをこれでもか、と引き下げてことごとしく問題視するというのは、大げさにいえば民族の虚弱化を奨励しているようなものではないか。
傍若無人、というのはかつては自己主張の強さが辺りを辟易させる、という意味で使われた。いまやそれが内攻して、自己中の小宇宙にどっぷり浸り込むのを誰も諌めようとしない世の中になった事態を指すようになったのではないか。風光明媚なドライブウェイを走る観光バスの中で。ひたすらスマホの画面に没頭する若者や、美しさや素晴らしさを表現するのに「カワイイ!」という表現形態しか持たないお嬢さんたち。さらには自分の生存そのものが、どれほど多くの人々によって構築されたインフラの上に成り立っているかを考えようともしないモラトリアム・フリーターなどは、この逆方向の傍若無人の一例に過ぎない。
太古以来の「近頃の若いものは」論とか、世代間の価値観ギャップだけでは説明しきれないこうした現象は、文明の進化に伴う遺伝子劣化、あるいはグレシャムの法則の社会現象一般への拡大適用、といったより大きなコンテキストで考える必要があるのかもしれない。あるいは、黒い羊がめだつだけで、実は極めてまともな(何がまともかの議論はあるにもせよ)人間の数の方が遥かに多いのかもしれないのだが。
2011年 11月 25日