2016年9月30日
「変わった本たちとの出会い」(7)りんごの木 竹下英一
今回取り上げるのは20世紀初めに活動したイギリスの作家ジョン・ゴールズワージーの中編小説「りんごの木」です。荻野博士はじめ高校同期生諸氏は既におなじみで、「卑怯な抜け駆けだ」「あなたの解釈違うわよ」「自分にも一言言わせろ」とすぐ喧々囂々となりそうで、冷汗が出てきます。この本は私たちが二年生の時の英文読解のテキストだったからです。(訳書が新潮文庫から「林檎の樹」として出版されています)
私たちのクラスの英文読解の担当はK先生という方で、やせ形の長身、ハンサムで物静か、しかしよく通るバリトンで表情豊かに授業されました。病弱(結核性?)のため生涯独身で一教員として過ごされました。授業は、初めに生徒が順々に訳文を披露します。この間先生は大きな間違いを正す程度で、文法面の解説、訳の巧拙の指摘はほとんどありません。時間の後半は先生が一人で訳し進めていきますが、訳文が日本語としてなんとも美しく美声と調和して、さながら音楽に浸るような心地で時間が過ぎてゆきました。
物語は、中流階級出の大学生が卒業前の休みに、イギリス南西部デヴォンシャーの田舎を自転車旅行の途中、足首をひどく挫いて困っている時、偶然地元の農家に住む美しい少女と出会いたちまち恋に落ちるところから始まります。時は五月、リンゴの木が花盛りの真夜中、泊めてもらっているその農家の果樹畑で、彼は少女の気持ちを確かめ求婚することができ、それからは夢のような日々がしばらく続くのでした。
ゴールズワージーはイギリスの作家らしく自然描写が実に上手で、草木や花の色と香り、空気の湿り具合や水の温度と動き、日と月の作る光と影を、絵のようにまた音楽のように表現し尽します。また、僅かな言葉により人物とその気持ちをその場面にはめ込んでいく引き締まった表現でテンポよく物語を進行させます。構成も巧みで、二、三倍の長さになってもおかしくないような数多くの伏線的エピソードやドラマティックな盛り上がり、そして登場する大勢の人物を手際よくさばいて破たんを見せません。いかにも作家円熟期の1916年の作にふさわしい出来栄えです。
この小説は私たち生徒にとって、公衆の前で声に出して読む初めての本格的な恋愛小説でした。話が進んでいくにつれて私は、机の上のテキストから顔をあげて先生や友達の顔を見ることが難しくなっていきました。時々ちらっと友達の方を見ると、赤味の増した顔で同じく机の上を見ているのでした。
さて、物語は次第に陰りを見せていきます。少女はウエールズ生まれの孤児で叔母の世話になっており、叔母はいずれ地元の農民と結婚させようと思っているが、少女は粗野な農民の生活には今一つなじめない。一方で少女は純真だが教育はなく、周囲の人々と同じく妖精や幽霊、運命の力を信じている。彼女は彼を愛していますが、心の底では、運命が少女を今の境遇から救い出してロンドンへ連れ去ってくれるために彼を出現させたのだと考えているようです。
彼は、少女の衣装など結婚の準備をしてすぐ戻ってくるから待っているようにと言って、近くのトーケイの町に一人で出かけますが、そこで旧友の一家と出会ってその教養ある妹に親しみを感じ、少女との結婚の決断が正しかったかどうか悩み始めます。ぐずぐずと彼が日延べする間に、物語は急速に悲劇的結末へ転がり落ちて行きます。
この小説をアルカディア的楽園の喪失劇と見ることもできますが、ゴールズワージーの言いたかったのは、イギリス社会の批判であったことは明らかです。彼は終始イギリスの上中流階級の生活と文化に対する批判の目を持ち続けて大作「フォーサイト家物語」を完結させました。死の前年1932年に社会改良運動への精神的貢献の功績によりノーベル文学賞を授与されました。彼が糾弾し続けたイギリスの歴史的、文化的、社会経済的な階級格差の問題は、形を変えて今我々の目の前にある問題でもあります。格差は差別を生み、差別は無知、貧困と暴力、そして悲劇へとつながります。
一方で格差は人間の本性の奥深い部分にしっかりと根を下ろしており、簡単に解消できるものではありません。我々にできることは、貧困や無知などに向かう見逃してはならない格差を見分けること、及びその解消を社会のコストとして全体で負担すること、に対して社会的合意をはかる努力だけではないでしょうか?「できる者から豊かになる」という明らかに失敗しつつある鄧小平流の亜流の「トリクルダウン」政策などで悪い格差の問題の解決は全くできないことに早く気が付くべきであります。
私は2013年の晩夏、ロンドン近郊でのある研究会参加のついでに、デヴォンシャーの中心地エクセターから港町プリマスまで路線バスで「羊の背」と言われるイギリス南西部独特の丘陵地帯の風景を見、また贅沢な雰囲気の残るトーケイの町を鉄道で訪れてみました。丘陵の背の部分は牧草地で羊や牛を放牧していますが、その周囲は両側から急傾斜に落ち込んで、その底をうねうねとくねる小川が流れ、斜面の所々に農家の集落とそれをつなぐ道路が走っています。とある農家の庭には小型の実をぎっしりとつけたりんごの木が植わっていました。物語の冒頭で、道端に休む大学生が見上げる目の前を、青い空を背景に籠を小脇に抱えた少女が丘の上から下りてくる運命の出会いの場景がありますが、あまりにそっくりな風景に思わずじっと見とれてしまいました。それと同時に、かつて少年の頃に出合ったこの作家の問いかけに、自分たちがまだ答えを見出していないことを深く恥じ入るのでした。(つづく)
平成28年9月 竹下英一