2016年10月6日
「豊川海軍工廠の悲劇」(1)及部十寸保
1 海軍工廠と私(前編)
学年の一年違いは大きい。昭和二十年、私は中学一年。工廠に勤労学徒として動員されたのは、二年生以上であった。
私たちの学年は、大清水の農事試験場で、ソバを刈っていた。あの日、終戦まで一週間の昭和二十年八月七日の午前十時半。豊川方面に黒煙が上がるのが見えた。
豊橋の市街地が空襲で焦土と化していたので、よく見えた。空襲は夜間のことなので、日中の黒煙は異様だった。
極東随一の兵器生産工場は、昭和十四年に建設が始まった。門前町の豊川町を一変させただけではない。私の住む豊橋市羽根井校区でも、今まで見たことがない広い道路が突然作られた。人々は軍用道路と言ったが、何を運ぶかは、軍の機密だった。猫の額のような狭い町ゆえ、隣組は大きな影響を受けた。道の反対側の床屋さん、駄菓子屋さんも道を隔てて遠くなった。
私の家の隣は菓子屋さん。その松井店には、私より一年上のケンちゃんがいた。私を弟のように可愛がってくれた。下校後、近所の子供たちで遊ぶときは、体の小さい私が苛められないよう庇ってくれた。中学二年生だった。そのケンちゃんが海軍工廠で爆死した。享年十五歳だった。
終戦になって、世間が落ち着いてから、松井家の疎開先老津に私は弔間に伺った。漁港なので帰りに魚を土産にいただいた記憶がある。
資料 豊川海軍工廠被爆状況
1 被爆状況 米軍資料
26分間
250キロ爆弾 3256発
2 従業員総数 56,000人(最大時)
3 奪われた人命 2,544人 負傷者1万人余
4 豊橋桜丘高等女学校犠牲者 引率教員 西村先生
女子挺身隊員 本多きよ子さん
白井 正子さん
4年 18名
3年 5名
2年 12名
合計 38名
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