2016年10月18日
私の戦争体験 戦争を憎み平和を守ろう(5)本多勇夫
〈正門前は生き地獄〉
ようやく共済病院の前まで来ました。今の豊川市体育館のある場所ですね。病院の庭園に、一箇所だけ汚れていない所がありました。そこに早稲田の大学生だと思います。頭を真っ二つにすぱっと割られて、うつぶせで倒れておりました。衣服は全く汚れておりません。側に帽子だけがありました。
そしてようやく正門前に着きました。今の豊川郵便局の前です。道の両側に欅の街路樹がありますけれど、そこへ行きました。だがそこは正に生き地獄でした。退避の遅れた人達は、爆弾の雨の中を逃げてきますから、片っ端からやられてしまいますね。豊川工廠は軍需工場ですから、鉄骨の建物が多いのです。それを破壊するのが爆撃の目的ですから、大きな爆弾を落とします。
落とされたのは250K爆弾と言いまして、250Kの重さの爆弾です。ここにある爆弾は10K爆弾で小さいですが、この25倍の爆弾が落ちるわけです。250K爆弾が落ちますと直径20米ぐらい、深さ10米位の穴があきます。それが実に3,200発以上落とされたのです。B29爆撃機124機が10機前後の編隊に分かれ、一二波にわたって落としたわけです。私達は2時間位続いたと思いましたが、実際は30分足らずだったのです。
そんな強力な爆弾ですから、直撃を受けた人は、姿、形が少しでも残っていればいい方です。だから手足がばらばらになり、首は飛び胴体が破裂して、五体は飛散してしまうわけです。街路樹に女子生徒の首だと思います。髪の毛が枝にからまってぶら下がっています。両足と片手を失くした人が、残った片腕ではいながら助けを呼んでいます。道はもう息絶えた人達が重なって倒れています。逃げるには死体を踏み越えないと先へ進めない程です。
私は呆然と立っておりましたが、恐怖で足が震え出し我慢できなくなって、南に向かって一目散に逃げました。どこをどう走ったか覚えていませんが、東海道線の線路まで逃げて行きました。
〈運命を分けた2時間の差〉
正門から100米程入った発電所の屋上に、敵機に応戦する防空壕の基地がありました。
職場が近かったので、私は防空隊の一人として機関銃の射手役になっていました。もし、空襲がもう2時間早かったら、私はその基地にいたはずです。
その日、私と交代して機銃を握ったのは佐野という人でした。佐野さんは発電所と共に、跡形もなく消えてしまいました。2時間の差で私は生き残ることができました。