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2016年10月27日

「変わった本たちとの出会い」(8)バウンティー号の反乱 竹下英一

これまでは高校以下の若い時期の本たちとの出会いについてお話ししてきましたが、この本は40才頃、あるアメリカのブッククラブのカタログに載っていたものを購入して読んだのが出会いです。私は大学では化学を専攻し、卒業後石油化学の会社に就職しましたが、時代のせいもあって、会社でも英語で読み書きをする機会がかなりあり、自然に余暇にも英語で本を読むことが多くなりました。1932年に初版が出たこの本は、最初の部分は当時の海軍用語、船舶用語の連続で取り付きにくいのですが、物語が動き始めると、わくわくするような展開で前のめりに引きずり込まれて行きました。

 話は、奇しくもフランス革命の起こった1789年、南太平洋トンガ諸島(当時のフレンドリー諸島)付近を航海中のイギリス海軍所属の武装貨物船バウンティー号で実際に起こって一躍有名になった乗組員の艦長に対する反乱事件の一部始終を、初めの内反乱側と行動を共にした見習士官バイアムの目を通じて克明に描き出したものです。バイアムは、実際に乗り組んでいた士官候補生見習、後に海軍に復帰し勅任艦長にまで昇進したピーター・ヘイウッドの仮名です。作者は、小説には素人のノードホフとホールという二人のイギリス軍人で、自分たちが興味を持った出来事を本にして小金を稼ぐつもりで企画と原稿を出版社に売り込んだ結果、大ベストセラーの誕生となりました。何回も映画化されDVDもありますが、本の内容とやや違います。英語では今でも出版されていますが、日本語の訳書は1975年頃以前の古書しか手に入りません。

 18世紀の後半に産業革命が起こるとイギリスの海外発展がピークを迎えます。その中でジェームス・クックが南太平洋の探検航海を命ぜられ、華々しい成果を挙げます。バウンティー号のブライ艦長はクックの薫陶を受けた軍人で、部下に対しては厳格であるがきわめて優秀な航海技術者であったことが事件の経過から分かります。

 当時、イギリス国家の上層を成す貴族、上中流階級、及び知識階級が、この海外発展政策を一致して支持し、海軍軍人による冒険的航海を惜しみなく支援しました。例えば、今に残る王立キュー植物園の創設者で科学界の大立者であったジョセフ・バンクスは、クックの第一回航海に同行し、バウンティー号の航海の目的としてタヒチ産のパンノキの採集とこれによるカリブ海のイギリス領土の食糧自給の可能性評価を設定し、ブライ艦長の就任を後押しし、最後にはバイアムことヘイウッドの軍法会議で逆転無罪を獲得させる舞台回しをしました。つまり、18世紀末から19世紀初めにかけてのイギリス海軍の成功は、上中流階級関係者の文化的共通性に基づく人間関係によって支えられていたのであって、海軍という組織を律する近代的な法規範、制度はまだ出来ていなかったのです。

 この弱点が、使命を正確に果たそうと極端に厳格な態度をとるブライ艦長と、有能だが孤高の人で艦長と人間的になじめないクリスチャン航海長という二人の、共に実力と実績によって社会の階梯を上昇して行くしかない下層出身者の間の対立を避けがたいものにしてしまいました。この対立に反乱という形を与えたのが、艦内最下層を成す水兵たちの感情と行動でした。この辺の事情は
スチーヴンソン作の「宝島」にも見事に描写されています。

 この時期まだ水兵の選任は艦長の専権事項でした。艦長は船が停泊する港にその都度オフィスを設け、応募してくる者たちの中から乗組員や水兵を選ぶのが普通でした。集って来るのは、元々は近くの農漁村から仕事と時には冒険を求めて出てきた者たちであって、知的道徳的水準は低く、予め組織的な教育訓練も受けてはいません。従って船が機能するためには、選任された乗組員や水兵たちが船に乗った後で、全てをゼロから教え込む必要がありました。この教育は出航後まで続きましたから、船内の人間関係はとげとげしいものになりがちだったと思います。

 こうして航海は進みタヒチに到着し歓迎を受けますと、この楽園の中に艦長以外の乗組員は上下とも一気に解放されて、滞在約6か月の間に現地の娘たちと結婚するものが続出しました。反乱に至った経緯と真の原因は、海の上の出来事なので容易に分かりませんが、タヒチを出航して元の船内生活に戻った時の水兵たちのストレスの大きさは想像に余りあります。ふとした艦長の行動に暴発した水兵たちはクリスチャンを担いで、艦長とその同調者をボートに乗せて追放してしまいました。反乱者と中立者を乗せたバウンティー号はタヒチに戻り、中立者をそこに下ろした後、クリスチャン以下の反乱者とそのタヒチ人家族計27人は、イギリスの追っ手から逃れるためバウンティー号で南海の未知の海域へ消えて行きました。

 バイアムことヘイウッドらタヒチに残った中立者たちは、やがてイギリス海軍に逮捕、本国に送還され、プリマス港に近いスピットヘッド湾で厳しい軍法会議の審査を受けました。なんと、オートのブライ艦長らはオーストラリア近海をさまよった挙句オランダ領インドネシアにたどり着き、一足先にイギリスに戻って反乱を告発していたからです。結局3名の水兵が反乱に加担したと認められ、呼び集められた衆艦の見守る中、旗艦のマスト高く吊り下げられて絞首刑を執行されました。3人の中には、未成年の少年でただ付和雷同しただけの者も含まれ、不運不孝を嘆く姿が涙を誘ったと言われています。

 一方行方不明になっていた反乱者たちは約10年後、孤島ピトケアンに上陸していたことが分かりました。しかし上陸後まもなくクリスチャンら反乱者の殆どは、タヒチ人との衝突で死亡していました。この島は生活環境が厳しく集団での永住には適さないことが今では分かっています。僅かな救いは、クリスチャンとタヒチ人妻マイミティの間に生まれた子孫が今でもこの島に生き残っていることです。(この島の環境については、草思社文庫のジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」の中に述べられていますので、興味のある方はご覧ください)

 この事件にイギリス海軍の首脳部とバンクスら国家の指導者たちは衝撃を受けました。組織化された近代海軍の建設に向けての歩みがここから始まったと言ってもあながち言い過ぎとも思えません。時はまだようやくビクトリア時代の初期にあたり、近代社会の諸制度の建設にはまだ多くの障害があったし、21世紀の今になっても問題の中心であるイギリスの階級社会の存在はなくなっていません。この事件で提起された社会的課題は、わが日本でも他人ごとではないのです。(つづく)

平成28年10月 竹下英一



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