2016年11月14日
豊川海軍工廠の思い出(5)桜丘高校 特別講師 井口正夫
〈B29大空襲〉
八月七日(火)晴
ついに豊川工廠、B29の大爆撃をこうむる。午前十時過ぎ、ボール盤のところに居たら、いきなり空襲警報総員退避の放送が入った。工場前の防空壕に入るか入らないかぐらいに最初の爆弾がさく裂した。 生きているのが夢のよう。工廠は瞬時にして廃墟と化し、多くの友の命をうばった。千両の山から命からがら寮に帰ったのはもううす暗くなってから。いっしょに防空壕にとびこんだ川口も小柳津もまだ帰っていない。母がお茶の入った水筒を下げて迎えに来てくれていた。
この日を私は一生忘れることはない。広島に原爆の投下された翌日、巨人のような爆撃機B29が十機余りずつの編隊を組んで次々とおそって来た。その数百二十四機、二百五十キロ爆弾三千二百余発が投下されたのである。この日亡くなった二千五百余人の中に私の恩師、同級生二十七名が含まれている(桜ケ丘高女犠牲者三十五名)。
爆弾が落ち始めたとき我々は松操女学校の人たちと同じ防空壕にとび込んだ。第一波と第二波の間に私を含む数人は壕を飛び出し西門から川添いに千両の山を目指して逃げた。途中何度か、敵機が頭上に来る度処かまわず体を伏せて爆弾から身を守った。いつの間にか作業着はちぎれはだしの足は血だらけになっていた。痛みは感じなかった。水田の中を走っていたらうめき声と共に足にからみつく手があった。胴体を破片で切断された男の人の上半身であった。私は今でもひどく疲れたときこの地獄絵の夢でうなされる。
戦争は二度としてはならない。