2016年11月16日
豊川海軍工廠について(2)桜丘中学校 2年B組 大槻佐和子
2 豊川海軍工廠
昭和十九年。この年は工廠の最盛期で主要事業部として、機銃部・火工部・光学部・指揮兵器部、器材部があり、他に、総務部・会計部・医務部・付帯施設として工員養成所・工員寄宿舎・共済物資部・共済病院がありました。本校の生徒は器材部で働いていました。
その敷地面積は 59万4,400坪(約200平方メートル)に及び、各部の工場が碁盤割の区画に整然と立ちならんでいて、ここで製造された主要兵器は、艦船用・航空機用・陸上用の機銃とその弾薬でした。その当時、海軍が使用していたものの約70%を、ここで生産していたと言います。ほかにも、光学兵器として、測距儀・双眼望遠鏡・航海兵器として、磁気羅針儀・測程儀などなど、多くのものを作っていました。
就労人員は、一般工員1万人。女子挺身隊を含む徴用工員4万人。動員学徒6千人。合計にして、5万6千人もを数えました。私のおばあちゃんも小学校の頃の担任の先生も当時学徒動員として、この工廠で働いていたそうです。これらの人々は、地元の豊川や豊橋だけでなく、遠くは長野県や、北陸方面からも、動員され、寄宿生活を送りながら、昼も夜も兵器増産のために働き続けたといいます。