2016年11月21日
豊川海軍工廠について(5)桜丘中学校 2年B組 大槻佐和子
6 祖母の戦争体験
昭和19年12月の終わり頃、B29の空襲がはげしくなるが、主に昼間で、軍需工場へ、集中して爆弾がおとされた。(祖母はこの頃名古屋に住んでいた。)しかし、だんだん空襲がはげしくなりだすと、夜も、2・3機の爆撃機による空襲があるようになり、一晩に、2回も3回もの空襲警報が鳴った。寝る前に身仕度をして、いつでも防空壕へ入れるようにして寝た。
昭和20年3月19日、女学校4年、十五才のこと。
名古屋夜間爆撃機2回目(1回目12日夜)100機以上で編隊を組んでの爆撃。名古屋市街の中心部全滅。B29は照明弾を先に落とすと、夜空を明るくてらす。まるで昼間のような明るさになる。そして、油脂焼夷弾をたくさん落とす。油脂焼夷弾は落ちると同時に爆発し、油が飛び散り、火が付き一気に燃え上がる。始めのうちは防火水槽など、家々に備えてあったので、その水で各自で消火するが、次々に落とされて危なくなったので家の外に出た時はもうどの家も火災で道路の両側が燃えていた。広い道路へ逃げた。一緒に出た叔父は、丁度その時、片側の家が焼け崩れてしまったため、道路が通れなくなり、家の中庭にあった掘抜井戸に入っていて助かった。近所の人の中には焼け死んだ人々がたくさんいた。
その夜の空襲で、家は焼け、身一つで国府へやってくる。国府の女学校へてんもどり転校。同級生はみんな豊川海軍工廠へ動員されていた。工廠への通知がきて、火工部へ入り、弾薬を作る作業をやった。仕事場の工廠内は芝生が生え、小さな工場が点々と建っていた。祖母の仕事場は、第二装填、信管部だった。信管が爆発するための火薬をピンセットで少しずつ入れていく。静かに少しずつ詰めるのだが、いつ間違って爆発するのかわからないので火薬などを詰める仕事場は、被害を少なくするために少し離れて建っていた。