2016年11月22日
豊川海軍工廠について(6)桜丘中学校 2年B組 大槻佐和子
工廠での食事はお昼、大きな食堂まで集っていって食べた。しかし、お米よりも、さつま芋や、大豆から油を取った残りの脱脂大豆のかげにごはんつぶがついているというようなごはんで、本来、軍馬が食べていたものらしい。おかずも、大根の煮たのが少しあるくらいで、とてもお腹一杯には食べられず、寮に入らず遠くから来て働いている人などは栄養不良の人が多かった。だから、闇物資(その頃はすべてみんな割当で配給されたため、それ以外の不正ルートの物資のこと)や、知人に分けてもらったり、物々交換で得た食糧で補い生きていた。
昭和20年8月7日午前10時頃。空襲警報と同時に工廠の上空に米機が来ていて、爆弾を次々と落とした。地響きと、黒煙を見た。薬品が爆発して工廠外退避を言われて、夢中で北門に向かって馳けていった。頭上には次々と、飛行機の姿が見え、爆弾のヒューと落ちる音、爆発する音で、もう生きた心地はなかった。とにかく夢中で門の外に避難し、そこから遠ぎかるために松林が続く中を走り続けた。飛行機と、爆撃の音も聞こえなくなり、はっとした時、工廠から1.5kmも離れた所にいた。豊川市へ来て日も浅く場所の名を言われて分からなかった。昼過ぎて、家へ帰る道も分からずに、とにかく来た松林を通って工廠までたどりついた。
北門から、正門へ抜ける途中工廠の中は見るも無残な姿にと変わり果てていた。何ケ所も爆弾が落ちてできたすりばち状の大きな穴が真黒になってくすぶり続けていたり、工場が燃えていたり、負傷した人を助ける人や,とくに正門の近くはひどく、いくつもの死体がころがっていた。そんな中をもう恐いのを通り越した状態で、夢中で、一人で歩き、線路伝いに6km位を歩きつづけた。橋の上は枕木の上を渡った。家にやっと帰りついた時はもう夏でも暗くなりかけていた。この時の死者は2,544人。同級生では1人亡くなった。
幸いにも仕事場が被害の少ない位置だったためだった。