2017年1月10日
続鶯系図(6) 板倉靹音
そのころ本町の天麩羅屋にも鶯がおり、金玉殿と号して付け子をとっていた。中音・高音に難はなかったが、下げの短いのが欠点であつた。金玉殿の弟子たちは叶の評判があまりにいいので面白くなくなってきた。そこで付け子は早目に切り上げて大挙して御園町の小鳥屋におしかけた。電車といえば笹島、武平町の間しか通っていなかった時代のこと、付け子にかようには蝙蝠傘の柄に風呂敷包みの籠をぶらさげて肩にかけ、てくてく歩いたものである。こういう連中が何十人も小鳥屋の前にたむろしていて、叶の弟子たちが出てくると、「よう、ドッコイ・ドッコイか」と悪態をついた。けだし、叶のかすかに残っている中音あたりの難を諷したものである。叶の弟子も負けていず、「何だ、キーコ・キーコか」と、やり返した。けだし金玉殿の下げの難を諷したものである。しかし、これが毎日くり返されると、叶の弟子も腹の虫がおさまらなくなり、金玉殿の弟子が天麩羅屋を出るころを見はからって、その前にたむろして「よう、キーコ・キーコか」とやり出した。かくて、果ては付け子の方は二の次となり、悪態をつきあうのが面白さに、金玉殿の弟子が小鳥屋へかよい、叶の弟子が天麩羅屋へ通うことになり双方の店先は毎日たいへんな騒ぎであった。