2017年1月23日
沈丁花 大木 実
そのひとはいま山陰地方の小さな町で、銀行員のご主人と小学五年生の息子の三人で、平安で幸福な家庭を営んでいる。平安で幸福な家庭を――。
椅子に身を埋めて私は聴いていた。思いがけなく、むかし好きだったひとの消息を、いちどだけくちづけをしたひとのその後の生活を――。
――わるかったかしら、こんなお話をしてしまって。
夫人は口をつぐんだ。夫人は知っていた。私がいまもそのひとに気持をひかれていることを。
0家を辞して外にでると、外は星空にかわっていた。春の夜の闇のなかに濃い花の匂いが流れた。
沈丁花――。
二十年前、こんな宵、こんな時刻、私はそのひとといっしょにここに立った。そのひとといっしょに0家を辞して、坂道を駅の方へくだった。沈丁花の花の匂いの漂うなかを。