2017年2月3日
随筆二題(5) 斎藤玉男
ルーカス・クラナッハのヌード像と歌麿のそれ
いずれも一面を道破しているとは言える。併し作品の生成にはいつもその時代の背景と個人の環境とを併せ考えるのでなければ、思いやりのある批判には到達し難い。この場合、時代は中世から脱皮したばかりであり、筆者は宮廷画家である。これらの事情を考慮すれば、これらの作品はフォルムロースと評するよりは、よくもこれまでフォルムリッヒカイトから脱出し得たと言うべきであろう。セルヴォスがその著「ルーカス・クラナッハ=アンシアンの裸婦」で彼の名作品「パリスの審判」(1530)について「自然発生的の動き」と言っているのは、適切に在来の裸婦像との相違点に触れているといえる。