2017年2月6日
随筆二題(6) 斎藤玉男
ルーカス・クラナッハのヌード像と歌麿のそれ
ここで想い起こすのはクレイヴンのクラナッハ作品の批判で、クラナッハの裸婦の表情が清純であると共に、一抹の滑稽味を漂わせていると言っている。これは確かに一つの発見である。筆者に言わせれば、これは中世期の凝固した婦人像の表情と現代のそれとの中間にこれを置いて眺める時、作者の個性を発揮しながら時代の桎梏を振り切る途中の、苦悶を紛らす冷苦笑のようなものが、時代のドイツ婦人の表情を仮たもののように受け取れるのである。
ジャンルと半世紀以上の時間を殊にするとは言え、ここで歌麿の作品を引き合いに出すことは許されるであろう。両者は時代の距たりも左ほどでなく、共に美術革新期に位いしてもいる。後者の作品でまず想い起されるのは「浴室のおびえ」などであろう。その表情は妖艶と困惑を狙ってその限りではかなり成功しているが、江戸中期の庶民層の頽廃さを強く反映している点では、クラナッハの裸像が在来の重苦しい宗教画の余韻を払拭しきれないのとは正に対照的である。