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2017年3月1日

スペイン巡礼の旅② 第1章 盲(めくら)蛇に怖じず 影山喜一

出国(浜松⇒マドリッド)
  いよいよ明日は、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す旅に発つ。忘れ物がないか何回もバックパックを改める。出したり入れたり繰り返すうち、仕舞い忘れが出てくるばかりか、誤って壊す不始末までしてしまう。とどのつまりは妻から「いい加減に止めなさい」と注意される。仕方なく散らかしたあれやこれやをよく確かめずに慌てて詰め込む。それが後で途方もないしっぺ返しとして降りかかるとは、すっかり頭に血が上った私に考えられるはずがなかった。平常心を保ちえないのは、なにせ初心者の常ではある。
  夜は、義妹夫妻(桐原まゆみと彼女の夫)とささやかな壮行会を催す。スペイン産カヴァのスプマンテのロゼ、フランス産ブルゴーニュの白、同じくフランス産ボルドーの赤と、帰って来れるか否かがわからないからワインだけは奮発した。しかし、73歳ともなれば9時が近づくと眠くてどうしようもなくなる。天気予報のチェックとスマホの充電セッティングを終えると、無礼を重々承知の上で就寝の挨拶もそこそこ床に着いた。自慢ではないけれど、すこぶる寝つきはよい。ただし、途中で少なくとも1回はトイレに行く。海外旅行では、それがなによりも心配である。
  6月10日は、5時30分に起床。スペイン巡礼の旅を思い立って以降、6.5kgのバックパックを背負い、1時間半の歩行訓練を2ヶ月前から毎朝してきた。今では、やむを得ず休むと、心身の調子が狂う。朝の訓練は、健康ばかりか視野と感性を培う。すなわち、かれこれ浜松を棲み処として20年以上になるが、意外と知らない名所旧跡や驚きスポットが多い。それらを発見する楽しみが、訓練の副産物である。さらに、道すがら挨拶を交わす地元の人びとの顔つきや身のこなしが、普段使わない感性を呼び覚ます。
  桐原夫妻に浜松駅までクルマで送ってもらう。ノンストップで送迎レーンに到着。二人と別れてバス停に向かう。10kg以上あるはずだが、興奮しているためか、バックパックは重く感じない。6時30分ぴったりに名古屋空港(正確には中部国際空港セントレア)行きのEライナーが発車。スペインではこんな正確無比の動きは無理だろうな、と半ば懐かしく苦笑する。もっとも、このように分あるいは秒刻みでチェックする運行の管理システムが一度日本を離れるや否や感心するよりは馬鹿々々しく思えるのもまた興味深い。
  14~15名の乗客は、老若男女が万遍なく顔を揃える。中南米系らしき中年男性もいる。だが、厳密にいえば若い日本人男性だけは見かけない。対照的に目立つのが、高齢の日本人女性の存在である。前の座席に座る二人連れも、旅慣れた様子で楽しそうに言葉を交わす。聞くとはなしに耳に飛び込んでくる会話によれば、ツアーの待ち合わせ場所がセントレアの出発ロビーらしい。独りで座る女性も結構、目立つ。空港で落ち合う予定としても、時代の変化を痛感させられる。私は、取り残されてしまったのか。東名浜松西インターでたくさん乗り込んだため、空席の目立ったバスが大方埋まり賑やかになった。
  何回もこのバスで海外に出かけているせいか、昔ほどは感激というか胸の高鳴りがなくなった。新幹線で関西空港に向かう際は、もう少し緊張ないし期待があるように思う。ひょっとすると移動手段の違いが原因かもしれない。新幹線に比べてバスが、日常感覚で気楽に乗れるのだろうか。もっとも、今回の場合は、企画の立案に当たり明確な目標が設定できなかったことも多少影響する。巡礼なる営みがあまりにも自分の現在の在り方とかけ離れているのである。正直なところ、どこに力を入れてたらよいか見当がつかない。
  掲示板で確かめた番号のフィンランド航空(通称フィンエアー)のチェックインカウンターに向かうと、遠い学生時代に度々体験した渦巻きデモさながらの長蛇の列にびっくりする。ルフトハンザとともにヨーロッパ便を名古屋で独占するからだろうか。いつも利用するエールフランスとくらべてマイナーで空いているにちがいないと侮ったのが裏目に出たのか。少し心配になる。最後尾を探してうろうろすると、「ネット予約の方はこちらにどうぞ」と声がする。スマホ中毒と馬鹿にしていた妻のおかげで、並ばないで搭乗手続きが済んでしまった。
  身軽になると、空腹に気づく。エレベーターで2階のレストラン街に上り、あれこれ探し回ってみたものの決められない。おかゆが胃に優しいとわかりつつも、本音ではいつも通りにパンとジャムが食べたい。妻は、和食を主張。両方を同時に満たす究極の妥協策として、「和の間」なる奇妙な名前の店を選んだ。私がトースト、妻はちりめん丼。ところが、トレーの上をみて途方に暮れる。ジャムがない。トーストの横には、目を疑ったが、あんこがある。あんこは、好きだ。しかし、パンに塗っては食べない。名古屋人の嗜好は想像を絶する。
  ヨーロッパ旅行の際、これまではエールフランスをだいたい利用してきた。大好きなパリを起点とするのが気に入って、ずっと長期間乗り続けてポイントも貯まった。しかし最近は、パリに対する魅力がさほど感じられず、頻発するテロへの不安も高まる一方だ。バスクを中心とする地方訪問の比重が伸びたけれど、国内の往来にはやはりエールフランスが便利である。ところが今回は、隣国とはいえスペインが目的地となって事情は変わった。その上、スペインに留まらずポルトガルを訪れることで話は一層複雑さを増した。
  いくぶん便の悪い北部の地方都市レオンを巡礼行脚の起点とする計画であったため、エールフランスをあっさり放棄してフィンエアーを選んだ。飛行時間も、ヘルシンキ経由で後者が短かったからである。また、出発地についても、エールフランスであると成田か関西となり、名古屋に近い浜松の住民としては忌避したい。すでに述べた通り、名古屋空港で搭乗可能なヨーロッパ便は、フィンエアーとルフトハンザの2社に限られる。エールフランスは離発着した時期もあったけれど、採算が合わないためだろう早々に撤退してしまった。
  フィンエアーの乗り心地は、すこぶる快適である。割増料金を払いはしたが、客室乗務員の待機場所と共用のために足が十分伸ばせる。美人をまじまじと眺められるのも幸せである。もっとも、いつまでも喜んではいられなかった。物事には表があれば必ず裏もある。ゆとりのあるスペースは、食事や飲み物を運ぶ際の中継ポイントにされる。また、トイレなどで移動する乗客が、すれ違うために身体を寄せる空間ともなる。安定飛行に移ったとたん、のびのび乗り心地を楽しむどころか、巨大な尻を避ける算段で四苦八苦する。
  10時30分に名古屋を発ったAY0080機は、途中2時間15分ヘルシンキで休んだ後、予定より30分弱遅れてマドリッドに着いた。夕方の9時ともなると外は真っ暗。17年前に訪れているはずだが、なにひとつ記憶に残ってはいない。それよりも座席にずっと縛り付けられる長旅を終えた乗客は、私に限らず飛行機はもちろん、それに関わるすべてから一刻も早く解放されたがる。空港の佇まいや周辺の景色を観察するゆとりなど皆無である。今宵の宿に無事辿り着けるか否かの緊張で胃がきりきり痛んでいるに違いない。
  送迎レーンは、予約するホテルの車両を待つ人たちでごったがえす。大小さまざまなクルマの出入りで危険極まりない。乗り込む前に荷物を積む必要がある。後部ハッチを開けるタイプはともかく、リムジンなどの収納スペースは横が開く。客と運転手と待機グループが、到着・積み込み・出発といったクルマの動きと複雑なパフォーマンスを繰り広げる。その一方、携帯電話で催促や問い合わせを辛抱強く行ったり、諦めてタクシー乗り場に移動するグループもいる。私たちの焦れるヒルトン・ホテルの迎えは、一向に姿を見せない。
  小一時間の足踏み状態で暴発しそうになったとき、やっとグロテスクなリムジンが勢いよく滑り込んできた。アメリカの若い女性と初老の男性が同乗し、他愛ない(と様子から読み取れる)世間話で盛り上がっている。いや渋々付き合う女性に男性が粘り強く喰い付いているのかもしれない。空港の周辺一帯は、国や地域を問わず味気ない風景が続く。すっかり暗くなって鮮明とはいえないが、コンクリート・ジャングルは不気味である。途中で国内便の発着する空港に立ち寄り、待つ客のいないのを念入りに確かめて走り出す。
  ほぼ30分でホテルに着いた。バーも喫茶ロビーも閉まった玄関脇の、唯一灯りのついた受付カウンターで手続きを終える。最初に声をかけたスタッフは、帰る時間だからと呟いて逃げる。仕方ないと横にいた先輩らしい男性が、代わって応じてくれる。どこにでもやる気のない人間はいるものだ。到着早々、残念な気分になる。部屋に入ると、すでに11時。ベッドのクッションはちょっと固めで心地よい。トイレもすこぶる清潔で洒落た感じである。時差ぼけと興奮であまり眠たくない。しかし、そうもいってはいられない。
  明日の朝、すぐ出立できる状態に荷造りを終えて、まずは疲労を軽減しようと寝ることにする。シャワーは、起き抜けに済ませばいい。まだ緊張を解くわけにいかない。ほとんど歩いていないので、靴下をはじめ衣類は変えない。マドリッド‐レオン間のレンフェ(スペインの高速列車の呼称)の切符を確認する。アトーチャ駅までの交通手段をどうするか、について再度検討してみる。ホテルのリムジンが8時30分に玄関前を出るとフロントで聞いたけれど、2時間余裕があれば大丈夫だろうと思いつつ若干心配ではある。
  結局、リムジンは使わないでタクシーで駅に向かうこととした。朝食をホテルではなく駅の構内ないし付近で探した後にとるとしたら、出発までの持ち時間は2時間どころか30分もない場合も十分ありうる。アトーチャ駅の様子がインターネットでもさっぱりわからないため、予約した列車に間違いなく乗車できるか否かは依然懸念材料である。もっとも、その種のことがらを肝腎な情報なしであれやこれや悩んでも解決策など得られるはずもない。さんざん堂々巡りを繰り返した挙句、肉体的な限界に達して睡魔に襲われた。
  スペインの首都は今回、トランジットのために立ち寄ったに過ぎない。前回、マヨール広場で到着早々足を骨折した事故があり、二度と訪ねようと思わない地の最右翼といってよい。ソフィア王妃芸術センターでピカソの本物の「ゲルニカ」をはじめとしてゴヤやミロの傑作群に浸りたい気持ちは、もちろん抑えがたい。カババハ通りでレストラン漁りをするのも、大いに魅力的ではある。しかし、あれやこれや御託をくだくだ並べるときではない。明日より2週間かけて挑戦する長歩きこそ、全エネルギーを投入すべきターゲットである。
巡礼前日(マドリッド⇒レオン)
  6月11日は、国鉄の駅までタクシーを頼む。8時30分にリムジンで送ってもらえたが、なにが起こるかわからないのでキャンセルする。テレビでみて憧れたアトーチャ駅は、期待に反してやや小さくて薄暗かった。もっと華やかに広がった植栽を思い描いたけれど、心なしかチマチマいじけて固まった印象を拭い難い。首都のターミナルと聞くと、わが東京駅やパリのリヨン駅と比べるのがいけないのかもしれない。行き来する利用客の数も、鉄道が生活に根付いていないからか、週末にしてはまばらで寂しい気がする。
  ファストフード店で菓子パンとカフェ・コン・レーチェ(ミルク入りコーヒー)とスーモ・デ・ナランハ(オレンジジュース)を注文する。絞りたてのジュースが素晴らしく美味しい。二人分で13.80ユーロ。切符は買ってあるが、列車の表示は出ない。出発の数分前に1番線の入口付近が、係員らしき男性を囲んで慌ただしくなる。降って湧いたように人波が押し寄せる。私たちも、置いてきぼりはたくさんと加わる。予約した最後尾の10号車は七分程度の埋まりようで、バックパックを横に楽々座ることができた。
  車線変更でもやっているのだろうか、しばらく行ったり戻ったりが繰り返される。予定通り目的地に到着できるか否かが、取り越し苦労と願いつつ少しばかり心配になる。さすがに10分程度で安定運行が始まった。高層の建物群がいつの間にかどこかへ消えると、土塊で固めたり石を組んだ家が切れ切れに現れる。それらもやがて見えなくなって、一面が麦の緑で万遍なく覆われる。線路の近くで時々、真っ赤な芥子が車風に煽られる。突然、送電線の鉄塔や弛んだ線の間に立つ電柱が、長閑な風景にまどろみかけた意識を呼び覚ます。
  3時間ちょっとで到着。レオンは、カスティージャ・イ・レオン州レオン県の県都である。人口は、13万人強。都市圏としては、若干増えて20万人ぐらい。かつてはレオン王国の首都であって、なかなか風格のある街並みが広がる。観光資源もふんだんに揃っているが、残念ながらゆっくり楽しむ余裕はない。晴天の午後で日差しがとても眩しい。巡礼コスチュームのグループが次々と眼の前を足早に歩き去る。見失ってはならじと必死に後を追いかける。洒落た橋を渡ってしばらく行くと、賑やかな商店街が切れ目なく続く。
  しかし、足取りの覚束ない年寄りや大きな乳母車を避けているうち、羅針盤代わりに頼っていたグループがいつの間にか消えた。どうしたものかと地図を広げて考え込んでいると、「この小路の先に三叉路があるから、左の道を入って少しすればアルベルゲ(巡礼宿)だ」と頭の禿げかかった初老の男性が親切に教えてくれた。言葉も地理も風習もわからない異国の路上で途方に暮れているとき、遠慮がちに温かい救いの手を差し伸べてもらえる喜びは格別である。初めて歩いた街角で得た感謝の念は、無類のパワーをもたらした。
  ともあれ情けないが、アドバイス通りに進んだつもりなのに、三叉路を左に入ったところで再度迷った。二人できょろきょろ次の一歩の行く先をさも自信なげに探していると、どこからか中年の男性が現れて「俺の後について来い」と身振りで示す。後ろを振り返りはせずずんずん行くので、バックパックを背負い直し急いで追う。目の前の建物をぐるっと右に回ったところで厳めしい門が聳える。誰がみても目指すアルベルゲそのものである。礼をいわなければいけないと慌てて探すが、男性の姿は前後左右のどこにも見当たらない。
  サンタ・マリア修道院の運営するアルベルゲ・デル・モナステリオ・デ・ラス・ベネディクティナスは、宿泊の手続き、クレデンシャル(巡礼証明書)や帆立て貝(巡礼のシンボル)の購入、問い合わせに訪れた人々で溢れる。3~4名のスタッフでは到底、捌けそうにない。見世物を観る気分で並んでいると、リーダー風の髭の中年男性に声をかけられた。前に倣ってパスポートを差し出し、クレデンシャルと帆立て貝を手渡される。30ユーロ受領した旨をノートに記帳した後、若いスタッフがアルベルゲの中へ誘ってくれた。
  下駄箱に折り重なった泥まみれの靴が先制パンチだった。すっかり気押されて潜った部屋の雰囲気は、不安を増幅して余りある。ゴーリキーの『どん底』で歌われたフレーズが、頭の中で重々しくくぐもった声音で響く。「夜でも昼でも牢屋は暗い。いつでも鬼めが・・・・あ~窓から覗く。」しかも、すえた汗の臭いが充満する。3枚のパーティションで区切られた80畳ぐらいの板の間は、真ん中に女性用・両端は男性用の2段ベッドで隙間なく埋まる。電灯はなく、向かいの壁にある50cm四方の窓が唯一の光源である。
  中央の扉から入って左右に伸びる通路の右は行き止まり、左へ進むと水回りのトイレ・シャワールーム・洗い場となる。巡礼者の到着ラッシュの時間帯に当たるのか、バックパックからシュラフを出して寝たり、シャワーを浴びに走ったり、汚れ物を抱えたり、薄暗く狭苦しい空間は、通勤ラッシュの丸の内界隈に引けを取らないほど混雑している。私語厳禁のルールでもあるのか、だれも言葉を交わそうとはしない。切れ切れに聞こえてくる声ともいえない息遣いが、初体験の闖入者の警戒心をいやがうえにも刺激する。
  そもそも現在の日本人は、70歳代半ば以下であれば徴兵制を経験していないため、いわゆる軍隊的規律や行動様式にまったく馴染みがない。学校の部活や体育会でそれに似た想い出を抱く層があるとしても、命のやり取りを基調とするものとは相当かけ離れているのではないか。アルベルゲに漂う雰囲気や振る舞いが軍隊に類似するか否かはすべからく私の推理能力を超える。しかし、紋切り型の軍隊イメージと比べると、ここで目にする光景は、外から権威や力で押し付けるというより各々の意思に任される部分が際立っている。
  階段を降りたところで上から「なにかわからなかったり、困ったことが起こったら、遠慮しないでどんどん申し出てください」と声をかけられた。いったいだれだろうと驚いて振り向いてみると、赤いシャツを着た中年の日本の男性が立っている。翌日、知り合ったばかりのヒロ君によれば、赤シャツ氏つまり岡本賢一さんは、カミーノ(スペイン語の路であるが、ここでは巡礼路ないし巡礼を意味する)の世界の名士で多方面の尊敬を集める人物らしい。ローマからサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩き通した猛者という。そのような事情がわかっていれば、話をしてみたかったと悔しくなる。
  岡本さんは、オスピタレロとしてアルベルゲの管理や宿泊者の相談相手を務める。アルベルゲの運営は公営の場合、設立者である自治体や教会(修道院を含む)の意向を基本としつつも、相当部分が施設の現場の意向に左右されているようである。民営においても設立者と現場の関係は同様であろう。オスピタレロの募集広告も、インターネットなどで行われる。もっとも、民営では個人が設置し運営に携わることも少なくない。日本人のオスピタレロは、個人やカミーノ・デ・サンティアゴ友の会の協力で実現することが多いらしい。
  3時近くですごく腹が減ったので、貴重品だけもち外出することにする。「第50回 鱒のレオン国際美食コンクール週間」と銘打って旧市街は、特設ステージを踏み鳴らしロック・グループが絶叫し、さまざまな屋台が広場のあちこちで客を呼ぶ。どこへ行くか当てもなく迷っていると、ワインの試飲会のチケットを買わされた。地元醸造家の夢や苦労話や自慢談を拝聴した後で、簡単なつまみで赤白を味わえるという試みだ。目の前の建物の中庭に会場を設営中だから近くで時間潰しするよう指示されてとりあえず無罪放免。
 数分後、チケットを渡して奥へ進むと、20名ぐらいがコの字のテーブルを囲む。総髪で髭ずらのスピーカーが延々と語るものの、当然ながらスペイン語でさっぱり理解できない。試飲用でないグラスが2つ並んでいるので、相応レベルの赤と白が出てくるに違いない。皿も大小重ねてあるからには、多少とも期待しうる料理が出るはずだ。横に座る参加者が私たちを日本人と知って、柔道場に通う息子二人の自慢を英語で語る。スマホの写真をみせて得意そうである。大きい兄ではなく小さい弟の方がチャンピオンになったとか。
  そこにイベントを主催する料理専門学校の英語教師の女性が割って入り、まだまだ終わりそうにない講演の内容をこと細かに通訳しはじめた。スペイン語が駄目なばかりか料理の素養もない身にとって、なんとも情けないというか自己嫌悪に陥る苦難の時間が続く。やがて最新の白がグラスに注がれ、やや青いがしっかりした味を堪能。赤は、いささか腰が弱くて迫力不足。ブドウの種類を知りたかったが、後のやりとりが面倒だから断念。つまみは量が少なく味の判別が不能。ともあれ、我が門出に相応しい稀有な体験ではあった。
  本心は食欲を優先したかったが、機会を逸すると後悔するかと、大聖堂の見学に踏み切った。スペイン随一の噂にたがわずステンドグラスは、パリのノートルダムよりだいぶ小ぶりだが、上品で多彩な色の組み合わせが気に入った。中央の祭壇で行われるスペイン語の大掛かりなものとは別に、横の小部屋ではフランス語とイタリア語のミサも催される。両方とも外まで参加者が溢れている。宗教などどこ吹く風の気分で遠路はるばる足を運んできた自分が、ちょっぴり恥かしくなった。レオンを出発点に選んでつくづくよかったと納得した。
 夕食まで時間があまりなくなってしまった。タパスをいくつかつまんで荷物整理に戻ろうと決めたとたん、いままで聞いたこともないベルモット専門のバルに突然ぶつかった。早速、並と中級を1杯づつ飲み比べてみる。やはり香りとコクが違う。最上級のものを棚から出してもらったけれど、恐ろしく高そうなのでビンに触れるだけにした。野次馬感覚で赤ワインとの差も確かめる。それだけ飲むのであれば、ベルモットに軍配が上がる。しかし、タパスと一緒に幅広く味わおうとすると、じっくりワインと絡ませるほうが好ましい。
  たらふく飲みかつ食べてアルベルゲに帰ったのは9時過ぎ。翌朝が早いためか寝ている人が多い。私も、シュラフにくるまって即刻爆睡。2回トイレに起きたが、通路で涼む姿にびっくり。十字架に張り付けられる寸前のキリストさながら、パンツ1枚であばら骨の浮き出た老人だった。妻は、枠のない上段ベッドでまんじりとしなかったらしい。なぜか足をかける梯子もない。一旦外へ出る必要があるので、否応なくトイレも我慢したとか。そのような構造にした理由はわからないが、1泊でおさらばの旅人にとって酷な仕打ちである。
巡礼初日(レオン⇒ビジャル・デ・マサリフェ)     
  5時30分に起床。ガサゴソ動く気配がしたけれど、隣の韓国の母娘はすでにいない。私たちがこれから歩こうとするより長い距離を歩いたというのに、キムチパワーの威力は、うんざりするくらい知っているはずだが、いまさらながら恐るべしと痛感させられる。急いでシュラフを丸めて袋に入れようするが、うまく空気を抜けず10数分汗まみれになる。バックパックに詰め込む作業は、さらに30分掛かる。真っ暗闇でちっぽけなヘッドランプだけを頼りとする難行の連続に早くも性も根も尽き果てる。
  靴の紐を足首でしっかり絞めて夜明け前の外へ飛び出ると、階段下で若者がバナナをミネラルウォーターで流し込んでいる。安上がりの朝食である。私たちは、もっとましな朝食にするつもりだが、果物とスナックは昨夜買うのを忘れた。腕時計は、もう6時20分。門の前を青いシャツを着た巡礼者がさっと通り過ぎた。レオンの街の周辺に巡らされた巡礼路はわかりにくいという話なので、駅からアルベルゲまで使ったと同じ方法で後追いすることにした。幸い青シャツばかりでなく色とりどりのバックパッカーが歩いている。
  県都だけあってレオンは広く、いつまでも街並みが途切れない。腹の虫がそろそろ限界に近づく頃、グッドタイミングにバルが現れた。同宿と思われる顔もいくつかあった。空いているテーブルに席を確保し、パンとコーヒーとジュースを注文。さっと食事を済ませ、バックパックを背負う。目的地ビジャル・デ・マサリフェのアルベルゲに早く到着したいからである。下着と靴下ぐらいの洗濯、夕食の目途をつけた上で、ゆっくり2時間は休みがほしい。とにかく自分の要領の悪さを朝の仕度で嫌というほど思い知らされた。
  舗装された道路は歩きやすくはあるが、趣のなさときたら堪忍袋の緒も限界だ。インフラが整備されているのか、人材を集めやすいのか、業種は定かでないが中小の工場がかなりの距離にわたり軒を連ねる。ガソリンスタンドに併設された超ミニスーパーでバナナと500mlのミネラルウォーターを購入。これで昨夜の買い忘れが帳消しになる。ところが、飲み水に関連してもう1つの失敗が露見する。高額(1500円)の水筒を朝の詰め込み作業中に紛失した件が、隠ぺいの目論見も空しくあっさり妻にばれてしまったのである。
  国道120号を横切るあたりで道が2つに分かれる。台座に立つキリスト像を眺めていると、大柄な白人(後述のスペイン女性と同道するブラジル男性)が左の方を強く勧めてくれた。ガイドブックによれば、右の方が国道沿いに延々とビジャダンゴス・デル・パラモを目指すのにたいして、こちらは多少距離が長く大半土の農道のため雨の日は泥沼状態に苦労するらしい。今日を含めて晴れの日が続いているようなので、彼の勧めを嫌も応もなく喜んで実行に移す。ともあれ、晴天続きですっかり乾燥した土は、欠点にもなり大きな石を避けて飛び跳ねると白々舞い上がる。
  日本の6月は、梅雨が長く続いくため暑苦しく嫌いだ。対照的にスペインは、春が顔を出したばかりで肌寒い。しかし、昼近くなるにつれて太陽が照りはじめ、じりじりと自然はもちろん人間も焦がす。湿度が低いので日陰に入れば涼しいけれど、逆に日向に出るや否や火刑の罪人状態である。歩行もできるだけ早く切り上げ、アルベルゲに避難するべきである。そうとわかってはいてもというかそんな時にこそ意地悪く、そろそろ出てきてほしいと頭に描くバル/カフェが現れない。午前中に行程を終了するタイミングはかなり難しい。
  チョサス・デ・アバホで昼食にする。喉が渇きすぎてヒリヒリするので、アクア・コン・ガス(発泡性ミネラルウォーター)でボカティージョ(生ハム入りフランスパン)を頬張る。裸足で潰れた肉刺を行儀悪く乾かす日本の若者と出会う。2年間京都のメーカーで働いた後、9月より愛知の会社に転職が決まったとか。貯金が底をつくまでヨーロッパでウロウロしたい、と語る。学生時代にボランティアで外国人相手の観光案内をした後遺症(?)か、日本の水が合わず異国(ヨーロッパ)暮らしで人間らしくなるということらしい。
  何度も巡礼路を行き来する彼(自称ヒロ)は、周囲の外国のグループと大声で親しげに語り合う。ひょっとすると日本も捨てたものではないのかもしれない、などと憂国者を気取る老人は簡単に納得してしまう。今さらながら単純な自分に呆れる。しかし、ここではさらにもう1人素敵な日本の若者を見つけた。シヲリと名乗る彼女とはほとんど言葉を交わしていない。ただ以後、いくつかの場所で外国人が噂をする場面に出くわす。「熱くなったから多分次で泊まります」といって通り過ぎる彼女は、爽やかで自信に溢れていた。
  ビジャル・デ・マサリフェのアルベルゲ・デ・サンアントニオパウダは、庭先のサンデッキやハンモックでゆったり休む光景をみて即決。民間の施設なので公営より料金は若干高いだろうが、雰囲気の良さに3~5ユーロ余計払うつもりである。宿泊8ユーロに9ユーロ足すと食堂でディナーを味わえると告げられ、試しに同宿の巡礼者たちと同じ釜の飯を食べるのも1つの経験と考えた。ベッドが割り当てられると、洗濯をしようと裏庭を覗く。洗い場の水道の蛇口下に横たわる板で汗まみれの下着と靴下とシャツを擦りつけた。
  夕方までにまだ時間があり、さほど疲れてはいないので、周囲を一回りしようと思った。貯蔵用のバナナとミネラルウォーターも調達したかった。ガイドブックによれば、いろいろ取り揃えたパン屋があるはずだ。15~20分でざっと点検できる本当に小さな村(あるいは集落)である。パン屋はすぐ見つけられたものの、扉が閉まっていて取り付く島もない。途中、普通の家らしいのに門の横で国旗と村旗のたなびく光景が飛び込んできた。表札から乱暴極まりない推測を行えば、恐らく村長の邸宅ではないかと思われる。
  当地にはレストランといわないまでもバルやカフェがない。宿泊先で提供してもらうか自炊しないと、やっと辿り着いても食事にありつけない。また、唯一の店(超ミニスーパーを兼ねていると仮定して)が閉まってしまえば、自炊のための食材や翌日以降の食料品・ミネラルウォーターも入手不能となる。にもかかわらず2つのアルベルゲと1つのオスタルが存在する。偶然にも私たちは、まったく事情に疎いまま夕食を宿泊先でとろうと決めた。外で楽しみたいと考えないで正解であった。まさしく九死に一生を得た思いである。
  部屋いっぱいに詰め込まれた50名ほどの泊り客が料理の配給をテーブルの前で待つ。やがて目の前に並べられた大皿に、庭先で数名のスタッフが1m四方はあるパンで調理したばかりのパエリアが山と盛られる。なかなか美味しそうな色をしている。オスピタレロのゴーサインでドッグレースの犬さながらに食べ始める。皆飢えていたのか、ガチャガチャ煩い。ところが、一口頬張って私の手が止まった。まずい!スペインの人たち(ばかりとは限らないが)の作るパエリアが、どうしたらこの味になるのか。一瞬、戸惑った。
  私の左隣りに20代のカナダ女性、右隣りは妻、向かいにオランダの高齢の夫妻が座る。驚いたことに全員がまずいパエリアをパクパク平らげる。それほどまでに腹が空いているのか。出されたからには礼儀として残すわけにいかないからか。私は、目をつぶって半分飲み込む。それはそうと、看護師のカナダ女性は、長期実習の合間の1ヶ月の休暇を母親と巡礼に費やす。促されて後ろを振り向くと母親と思しき人物が笑顔で会釈する。彼女の肩にある刺青を彫った理由を訊くと、ファッションで友達はほとんど全員がしているそうだ。
  カナダ女性の左隣りと彼女の向かいにいるフランス人のグループは、もっぱら仲間同士でやりとりするだけで、他の人たちと全然打ち解けようとしない。親密な小集団は、ばらばらな個人と向き合っても、自分たちのみで固まってしまう。開かれたコミュニケーションは生まれない。小集団と小集団の出会いにおいては、多少とも形式的になるかもしれないが、相応のコミュニケーションが成り立つ。そして、なににもまして濃密なコミュニケーションを期待しようとすれば、背景の異なる個人をたくさん集めることだろう。いつしか教室で講義する錯覚に捉われる。
  カップルに個人は喰い込みにくい。カップルのほうは排他的にならないよう努めても、周りの個人や集団がとかく遠慮あるいは敬遠する。その結果、コミュニケーションを求めるカップルは、カップルを暫定的に解消し個人として動くか、息の合いそうな他のカップルを探そうとする。ここらで組織論のレクチャーは終わりにしよう。カミーノ・デ・サンティアゴの記録や回想をざっと紐解いてみると、コミュニケーションを賛美するのは、ほとんど個人で試みた場合である。少なくとも数週間の長旅を個人で実行しようとすれば、半端でない社交術と勇気が必要不可欠な気がする。
  オランダのご夫妻は、もっぱら奥さんが話のリード役を務める。どうやら理学療法士かエステティシャンかと推測される。最近、講演会で海藻を使った日本の科学的理容術が魅力的な映像で紹介されたとか。興奮気味にまくしたてられて迫力負けした一方、肝心の内容についてはほとんど理解できなかった。お手上げ状態の私をみてご主人が、スマホを差し出し写真をいくつか示してくれる。“科学的”の部分は依然として霧の中を彷徨うが、なにをテーマとする話かはおぼろげながら掴めた。面白くかつ疲れもした夕食だった。
巡礼2日目(ビジャル・デ・マサリフェ⇒オスピタル・デ・オルビゴ)
  6時30分に出発。まだ薄暗いが晴れている。奇麗に整備されているがちっぽけな村は、10分足らずで両側に畑の広がる農道となって消える。ふと頭上の電線に目をやると靴がブラブラ揺れている。不思議な所業である。そもそも巡礼を行うにあたりいちばん大切なものをなぜ放棄するのか。高く周囲に手をかける場所のないところで、いかなる方法で紐で縛ることができたのか。それよりもなによりもこれまでの苦労やこれからの苦労とどのような関連があるのか。笑って済ませられない、その割にフワフワッとした気分になる。
  「ブエン・カミーノ(巡礼に栄光あれ)」といって昨夜、夕食の席で隣に座ったカナダの女性が追い抜いて行く。同年代の若い女性と楽しそうに話しながら歩を進める姿が眩しい。私よりだいぶ小柄な体格でどうしたらあんなにスピードが出るのか。途中で写真を取り合ったり、土手の草を摘んだりしている。巡礼の道筋でもっとも心の和む瞬間である。私たちもしゃかりきに目くじらを立てず、彼女たちを見習って楽しみつつ歩きたい。そう本心では思っているにもかかわらず、なぜか実際の動きとなると脇目も降らず頑張る。日本人の悲しい性であろうか。
  若い女性たちについ見惚れて気づかなかったが、二人の後ろをだいぶ遅れてお母さんが歩いている。そのとき不意に思い出した。レオンのアルベルゲで一緒だった韓国の母娘は、どんなかたちで旅を続けているのか。彼女たちの出発地は私たちと違い、ピレネー山脈のフランス側サンジャン・ピエ・ド・ポーと聞いた。全歩行距離は、800km弱に及ぶ。もっとも、それは、カナダの母娘も同じだ。注意深く観察すると、なぜか親子づれが多い。母と娘が目立つけれども、父と息子も少なくない。子供は、たぶん高校生か大学生か。
  道の両側でニンジンの葉っぱを長くしたような緑の絨毯が延々と延びている。先っぽをちょっとばかり千切って鼻にかざすと、なんとディルの濃厚な香りが身体中を突き抜ける。ラベンダーならともかくディルとは驚きだ。心なしか浮き浮きしてくる。遠鉄百貨店のハーブ・コーナーではディルが欠品で、予定する魚料理などがしばしばメニューの変更を迫られる。だが、腰を下ろして休む場所がなかなか現れない。業を煮やして石ころだらけの小さな窪みがあったので、ざっと広げたシートに座ってバナナをミネラルウォーターで流し込む。レオンのアルベルゲの階段で見た若者を真似たのである。
  ビジャバンテで朝食をとる。メニューは、すでに定番となったボカティージョかクロワッサン・カフェコンレーチェ・スーモデナランハ。超ミニスーパーでバナナとミネラルウォーターを買う。インド系と思われる青年が、私たちと入れ違いに立ち去った。横では熟年の夫妻が本格的な食事をしている。朝からそんなに食べるのか、しかも若くないのに、と他人事ながら首をひねる。とにかく海外ではびっくりする振る舞いにたくさん出会う。それに引き換えてわが日本人は、年齢・性別を問わずすべてがほぼ同様の枠に収まる。
  オスピタル・デ・オルビゴ村の入り口にあるベンチで休んでいると、耳元で鋭いラッパの音とともにパンを山ほど積むワゴン車が横切る。移動販売だ。あちらこちらの家々から籠や袋をもった人たちが現れる。邪魔になるといけないと思い、眼の前の橋の欄干まで移動する。恋の虜となった騎士が、相手の姫への愛の証として1ヶ月間この橋をだれにも渡らせない、と誓った。見事に誓いを果たした後、勇者ドン・スエロ・デ・キニョネスは、サンティアゴ巡礼の旅を企て、レオノール姫の腕輪を大聖堂に奉納したと伝えられている。
  緩やかに蛇行する流れのところどころに中洲があり、枝ぶりの素晴らしい木々が心地よさそうな影をつくる。しばし時間を忘れて佇んでしまう。頬を撫でる微風が心地よい。ここに畳の間があって寝ころんだら、即座に白河夜船となること間違いなし。ともあれ、花より団子を身上とする吾輩は、橋を渡り切った袂にあるレストランが気になる。ちょっと遠すぎてはっきりは見えないが、動いている頭の数は結構多そうだ。満員御礼は御免と痛い足を引きずる。オープンテラスに席を確保し贅沢な気分でいよいよランチの開始である。
  とそこに「こんにちわ」と聞き覚えのある声音の挨拶をしながらヒロ君が、物静かな欧米系の若者を連れて同じテーブルに座った。バークレーで個人事業を手掛けるアメリカ青年らしい。自分から率先しては絶対口を開かない人物は、巷間に流布するヤンキー像と程遠い。極めて内省的なイメージを身辺に漂わす。ヒロ君の独演をしばし聞き流し、清水寺の欄干に寄りかかる気分。スペインにいることを忘れて、すっかり日本で寛ぐ感覚の瞬間である。橋のこちら側では川の流れがまったくみえず、犬が走る芝生とそれを囲む遊歩道が広がる。
  ビールの酔いがまわらないうちにアルベルゲを探したかった。だが、ヨイショと立ち上がったとたん、例えようのない激痛が腰を襲った。こんな場所でぐずぐずしていられないので、我慢しながら右に左に狭い小路を捜し歩いた。看板は3軒あっても、全然行き当たらない。日差しは、想像以上に厳しい。痛みは、強くなる一方だ。左の腰に加えて右の股関節が限界をこえる。肉刺のつぶれた箇所も、焼きごてを押し付けられた感じである。足を前に踏み出すと、腰と股関節、さらに足の指が絶妙のハーモニーで痛みの合奏を始める。
  ぐるぐる同じ道で円環運動を繰り広げた挙句、ベートーヴェンの第九交響曲ばりの激痛好演に屈服。昼食をとったレストランにボロボロ状態で戻って、カウンターの女性スタッフに一晩泊まる旨を伝える。レストランは、オスタルを併設していたからである。手続き書類に目をやり新発見。なんとオスタルの名前は、かの勇者に倣う“ドン・スエロ・デ・キニョネス”である。部屋に入って整形外科でもらった貼薬を処方し、ただちに左腰と右股関節の痛みの原因を分析した。その結果、荷物の詰め込み過ぎという診断に落ち着いた。
  10kg強はありそうな(帰国時に回収したものを詰めて空港で測ると12kg)荷物のうちで少なくとも2kg程度は減らす必要があるのではないかと妻と話し合った。いろいろ迷った末、スペイン語の会話集・シャンプー・洗剤を廃棄、シャツ・下着・スイス製アーミーナイフ・ポルトガルの観光案内を転送することにした。話し相手の前で会話集など捲ってはいられない。身元不明の外国人に捉まった上で辛抱強く言葉を待ってくれる地元民がどれだけいるだろうか。シャンプーは、だいたいシャワー室に備えてあった。
  洗剤については、シャワー室の洗剤か石鹸を失敬する。シャツは2枚を1枚、下着も3枚を2枚に減らしても、なんとかなるのではないかと仕方がなく開き直る。大枚をはたいて購入した衣料はいずれも、速乾性で室内でさえ一晩吊るして置けば即使用可能である。昔ながらの綿製品は、肌触りがOKの割に洗うとなかなか乾かない。海外旅行の際、何回となく辛い経験をした。スイス製のアーミーナイフは、自炊や、休憩時の果物の皮むきに便利だろうと、出発の数日前になって急いで購入した。だが、リンゴは、齧ればよかった。  
  念願のポルトとコインブラに観光旅行は、巡礼を無事成し遂げた後の自分への報償のつもりでいた。しかし、ことここに至っては、目標の達成自体が根底から脅かされているわけで、まずは歩行条件の確保こそ最優先されるべきだった。いくら能天気の私であっても、その程度の判断は当然できる。とはいえ、浜松で入手した案内書はあってもなくても構わなかったけれど、丸善で買ったポルトガル語の地図の放棄は悔しくてならなかった。目分量で2kgと見当をつけた荷物の仕分けは、心理的抵抗感もあって相当手間取る。
  転送先は入国時に泊まり多少とも様子がわかって安心ではないかと考え、帰国直前に再度投宿する先を兼ねてマドリッドのヒルトン・ホテルとした。バックパックに入れるグループと放棄するグループを区別し、後者のうち捨てる小グループから転送する小グループを分けた。バックパックに必需品群をしまい、捨てるものは、屑籠に放り込む。転送品群は、諸所万端スペイン流の方法がさっぱり掴めないので、明日の朝にオスタルのスタッフと相談するしかない。細々と身体と心を動かすことで疲労困憊の問題処理が終わる。
  転送の申し込み用紙は、ハコトランスなる会社が巡礼路の途中の70ヶ所の宿泊施設やカフェ/レストランに置いてある。普通の荷物以外に自転車やその部品、書類の送付が可能という。至れり尽くせりである。だが、せっかちな日本人には難題が残る。用意した書類を受け付けるオフィスが、午後1時にならないと開かないのだ。これでは巡礼のスケジュールが実質、半日遅れてしまう。幸い今回は、私たちの泊まったオスタルが暇を持て余した状態だったらしく、女性スタッフが快く代行を引き受けてくれて大いに助かった。
  アルベルゲの3倍払いはしたが、オスタルの寝心地は素晴らしい。腰の痛みはかなり和らいだ。不測の事態に備えて妻が持参したサポーターで締め上げると、背筋が伸びて腰も定まり以前よりもしっかり歩けそうな気がする。なぜ体操や重量挙げの選手が異様な格好で登場するか、掛け値なしの実感をもって理解することができた。ともあれ、完璧なかたちで元に戻ったわけではない。腰と股関節には拭い難い違和感がべったり張り付いている。10本の足の指すべてが、肉刺の潰れた傷を晒し爪も無残に黒々と腫れ上がる。
  這うように摺り足で蛇行した昼間の屈辱は、私にとって一生忘れられない経験である。2016年6月13日は、73年の人生においても多分、五指に入るエポックメーキングな日といってよい。だが、後で振り返ると大変なことがらであっても、当の現場において意外なほど本人はあっけらかんと楽観していた。1日のスケジュールの遅延は渋々受け入れるしかないものの、ここで巡礼を断念するとか即刻帰国などとは想像もしなかった。腰・股関節や足の指10本はやはり痛いが、明日の出発時間を考えるうちに睡魔が襲った。



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