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2017年4月1日

スペイン巡礼の旅③ 第2章 遅れて本格始動 影山喜一

巡礼3日目(オスピタル・デ・オルビゴ⇒アストルガ) 
  予め日本で立てた暫定計画によれば、昨夜がアストルガに泊まって、今日はラバナル・デル・カミーノまで行くはずだった。けれども、腰・股関節の異変と足の指の負傷で大幅な変更を余儀なくされた。30km歩く予定が、まだ半分しか来ていない。1日に25km平均のペースを守るつもりが、悔しいが相当の下方修正が不可避になりそうである。実際に歩いてみないとどんな具合か体調はわからないが、今日のところはアストルガを目指すしかないと腹をくくる。ともあれ、巡礼を断念するという選択肢は浮かばなかった。
  計画の下方修正には、体調の不安以外にもう1つ理由がある。オスピタル・デ・オルビゴを出発する時刻が、荷物の転送手続きのもたつきで10時になってしまった。通常なら遅くとも6時30分に宿を出るのが、3時間半もオスタルを動かなかったわけである。若干の休息と雑用(洗濯・身の回り点検)と翌日の準備を見込んで、だいたい午後2時30分には当日泊まるアルベルゲを決めておきたい。文句のつけようのない不可抗力とはいえないかもしれないが、最小の修正を施すことで初動異変を乗り越えなければならない。
  起伏の激しい岩場の多い道を体調に気遣いながら恐る恐る歩く。最初は腰の締め付けがいくぶん煩わしく感じたものの、トレッキングポールの使い方に慣れると調子が出てきた。途中に立ち寄るカフェがなかなか姿を現さないため、木陰で休んでバナナをミネラルウォーターで流し込む。細くクネクネ続く先にやっと石の彫像がみえ、アストルガと大きく書いてある看板が横に控える。いつの間にか数人の巡礼者が集まって祈りを奉げている。たんなる観光客にはありそうにない光景で、ある種の崇高ぶりを感じ取りなぜか嬉しくなる。
  サント・トリビオ峠の先端に立って眺めるアストルガの街は、教会の塔が遥か彼方にいかめしく聳える。ちっぽけで村ともいえない集落ばかりを通り抜けてきたため、気持ちの上である種のプレッシャーないし期待を感じてしまう。昂ぶりに押され勇んで一歩踏み出したとたん、ギターを爪弾くインディオと見紛う男性に呼び止められる。不思議に暴力的な雰囲気はまったくないが、ただでは通させないぞと告げる眼力はすごい。仕方なくコインを箱に入れて去ろうとすると、「街中の市場で昼飯を食べな」と教えてくれた。
  舗装されたコンクリートの坂を空腹に耐えて急ぐが、ぱっとしない商店や人家の波がだらだら途切れずに続く。やがて30分ほど進んで小さな川を渡ると殺伐とした畑にぶつかる。一瞬、さっき峠で目に焼き付けた光景は、極限的疲労のもたらす幻だったのか、と分別のある大人らしからぬ絶望に陥った。しかし、冷静に考えるとありえない話である。巡礼路を指示する黄色の標識は、ずっと間違いなく辿ってきたし眼の前にも存在する。要するに、行政区画としてアストルガであっても、中心街はまだ先にあるということだろう。
  その通りになった。2m幅で石ころだらけで歩きにくい農道は、次第に強まりつつある日差しを遮ってくれる軒下も木陰もない。遠目に頼りがいのありそうな建物が見えて期待したものの、近づいてみると暗くなれば幽霊の現れかねない廃工場だった。日本なら遮断機付きの踏み切りとなるに違いない単線の鉄道線路を跨ぐのに、延々と左右にゆっくりしたスウィングする螺旋の昇り降りを強いる金属製の階段もある。ぬかるむ土手をヨイショとよじ登ると、猛スピードで自動車が走る道路に出た。向かいの急坂の先に目的地があるらしい。
  坂を登って一息つく間でもなく左手に公営アルベルゲの白づくめの建物が広がるけれど、私たちはやり過ごし民営のアルベルゲ・デ・ペレグリーノス・サン・ハビエルを目指した。後者は、ガウディ設計の司教館を併設する大聖堂に近く、街の出口にあって翌朝の出発に便利だったからである。ギターの男性のアドバイス通り広場いっぱいに市場が開かれていた。一通り回ってみたものの、衣料や雑貨が主みたいだ。食事をする類の屋台めいた場所はない。遅刻して断られるのは嫌なので、とりあえず宿の確保を優先させた。
  アルベルゲの場所は、予想外にわかりにくかった。昼休み直前に捉まえた観光案内所の男性スタッフの説明は、さっぱり要領を得ない。地元の主婦に訊ねても、自信なさそうにもじもじ身をよじるばかりである。私たちだけが、特別の道音痴だったわけではない。数名の巡礼者がさっきから同じように周囲をぐるぐる回っている。そこに救世主が登場する。オルビゴ橋の袂のレストランでヒロ君と一緒にいたアメリカの青年が案内してくれた。次の宿泊地に向かう彼とは、感謝の念を表し別れる。彼の道中安全を心より祈った。
  収容人数95名のアルベルゲは、規模のみならず施設内容や運営スタイルに評価すべき点を多々感じる。入口のわかりにくさと裏腹に限られた敷地をうまく使っている印象である。3層の建物のうち、地上階がオフィス・集会場・物干し場など、2階は半分が水回り(トイレ・シャワー・洗濯場)もう半分は2段ベッドの寝室、最上階はすべて2段ベッドの寝室である。私たちは、3階の道路側ゾーンの下2つを割り当てられた。ゾーンとしてはあと2つ、物干し場を一部含む中庭に面するゾーンと窓のない中央ゾーンがある。
  ベッドの上に白い布が数枚きちんと畳んで置かれている。手に取ってみると布ではなく柔らかな紙でつくられたシーツと枕カバーである。使用後は、丸めてゴミ箱に放り込めば済む。日本人が考えそうな仕組みではないか。スペイン人も結構、やるじゃあないか。すっかり感心してしまう。床や天井の板・林立する柱や梁・窓の採光の具合など、材料はもちろん細工とセンスが気に入った。階段の壁には光度を落とした電球が、夜になれば安全確保の手段として用意されている。レオンの荒んだ初体験が、トラウマとなっていささか懐かしく思い出される。
  午後2時30分を過ぎて寝室は、1日のノルマを無事終えた安堵と、中休みの宙ぶらりん状態で静まる。もう少しのところまで来ながらアルベルゲをうろうろ一緒に探し、色も銘柄も私と同じバックパックを背負うカナダの中年男性は、よほど疲れたのだろう向かいのベッドで早くも高いびきである。かなり高齢のカストロ髭の欧米男性は、青いシュラフから両手を出して、なにやら一生懸命ノートに書き込んでいる。ひょっとしたら有名な作家かもしれない。あるいは奥さん宛の日記を書く恐妻家ということもありうる。
  ともあれ、こちらは腹の虫の怒りがとっくに限界を越えているので、貴重品の詰まったウェストポーチを身に着けて飛び出した。生まれが貧しいせいか大聖堂を横眼で見ても、ガウディ設計の司教館を探そうとなどと考えもしない。どこにしようか迷ってみたが慎ましやかなホテルの1階のレストランに決めた。奥にはきちんと白いテーブルクロスのかかった部屋がある。しかし、昼は手前の通り沿いの大衆コーナーになるらしい。旅行者とも地元民とも区別のつけられないグループが何組か料理そっちのけで口角泡を飛ばす。
  時計に目をやると、早午後4時を過ぎている。このランチ後、宿で一服してから再度ディナーで外出となると億劫なので、胃袋には多少負担かもしれないが2回分を一度で済ませようと妻と合意した。野菜スープ・ミックスサラダ・トルティージャ(スペイン風ジャガイモのオムレツ)・肉の煮込みにビールと赤ワインを頼む。最後の煮込みはいささか形容に難儀する珍品といえるかもしれないが、他の3品は店ごとに個性がないわけでないがどこで食べても美味しい。とくにリオハの赤ワインは、疲労と苦痛を完全に拭い去ってくれた。
  1つ置いて隣のテーブルで青いパーカーに牛乳びん底メガネの小学校高学年ぐらいの男の子を中心とするファミリー・グループが、思わず見惚れてしまうほど楽し気に沸き立つ。少年を囲む面々としては、彼の両親・祖父母・叔父・叔母といったところだろう。服装から想像すると上流階級に属するのではないか。よく聴き取れないのが残念でならない。ともあれ、どの国の言葉にせよ理解できないのだから、さほど気にするわけではない。ただ日本ではとっくに失われた家族の団欒の原型を覗いた思いで目が離せなかったのである。
  アルベルゲの入口をくぐるとオスピタレロを囲んで数人が盛り上がっている。笑い声を聞き流して2階に踏み込むと、衝立越しに語り合いながらシャワーを浴びる気配である。3階は、シーンと静まり返る。だからといって、全員がぐっすり寝入ったわけではなそうだ。角っこの老人がヘッドランプを点けて読書に没入する一方、頭上の少女はパントマイムさながらの音なし荷造りで忙しい。そもそも民営に泊まる巡礼者は、公営の連中と比べて品行方正なのかもしれない。支払う料金の多寡が泊り客の行儀の良し悪しを左右するのか。

巡礼4日目(アストルガ⇒ラバナル・デル・カミーノ) 
  巡礼路を歩き始めて4日目の朝は、薄暗く靄がかかっているものの一応は晴れている。雨が多いと驚かされていただけに連日ほっとする。腰に不安を抱え足指10本とも肉刺潰れの身は、さらに雨となった際の悲惨さを想像するのすらまっぴらだ。軽い足取りで舗装道路を進むと大型の貨物車が猛スピードで行き来する高速道路にぶつかる。横断歩道などどこを探してもあるはずがないので、何回もしつこく左右確認し恐々渡るしかない。だいたい3kmでムリアス・デ・レチバルドに着く。ここで朝食をとる。ジュースが美味しい。
  しばらく平坦な道がのんびり続いて気を緩めたとたん、ジェルガ川を渡ったあたりで息もつかせない急坂となる。バックパックが肩に食い込み、腰と股関節はじわじわと疼く。足指の痛みも、半端ではない。休もうと適当な窪地を探すが、瓦礫と泥が切れ目なしに続くばかり。とうとう我慢しきれず荷を下ろし、立ったままバナナとミネラルウォーターを口に頬張る。上方で雨が降ったわけでもなさそうなのに、なぜか水がちょろちょろ瓦礫の合間を流れる。奇麗に磨いたトレッキングシューズが見る影もなく泥にまみれていった。
  昼食の場所は、一応登りの切れ目であるサンタカタリナ・デ・ソモサに決める。空腹よりも休息が欲しかった。途中、なんとも奇妙な事実に気付いた。たびたび眼の前を行き来する鳥(たぶん雀だろうと思う)が、日本の雀よりは丸々太っていて迫力がある。歩く際も、酔っ払い風に体重を持て余して危なっかしい。最高傑作は、飛び上がるときに観察できる。地上1m付近まではなんとか飛び上がりはするが、急に失速したと思うや否や叢か木の枝に噛り付く。雀以外のカラスや鳩についても、似たような動きがはっきり見て取れる。
  昼の食事と休息をゆったり楽しんでいると、空模様が怪しくなってついに雨が降り出す。ただでさえ遅れ気味なので、楽しみを中断して出発する。先ずはレインウェアー上下を取り出し素早く身に着け、肩掛けだけ露出させバックパックをカヴァーで覆う。スパッツで靴の半分と足の膝下を防護する。帽子にも覆いをかけるが、視界が遮られて歩きにくい。形ばかりつけていた手袋をはめ直すが、雨用でないためぴったりフィットはしない。大部分が布製ではあるけれど全身を包まれて、ゆるキャラの縫いぐるみという出で立ちである。
  サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す4種類の巡礼の道のうち、今回の舞台となる「フランス人の道」は、出発点のサンジャン・ピエ・ド・ポー200mを皮切りに、だいたい1,000mを上限とする範囲に標高が収まる。1,000mを越えるのは、レオンの手前でコル・デ・レポエデル(1,450m)、アルト・カルネロ(1,150m)、アルト・クルセイロ(1,080m)の3つの峠である。最初のコル・デ・レポエデルは、出発後20kmを一気に1,300m近く登らねばならない難所中の難所とガイドブックで指摘される。
  一方、私たちが計画するレオン以降は、ラバナル・デル・カミーノ(1、160m)、イラゴ峠(1,505m)、オ・セブレイオ峠(1,330m)、ポイオ峠(1,330m)の4つに上る。全行程中で最も高いイラゴ峠の踏破は、サンティアゴ・デ・コンポステーラへのゴールに次ぐ巡礼におけるハイライトである。それを無事に成し遂げようと多くの巡礼者は、アストルガより25kmの道のりを1日で歩く愚は犯そうとせず、直前のラバナル・デ・カミーノで英気を蓄えた上で挑戦するらしい。私たちも、その仲間に加わるつもりである。
  いつの間にか雨が止んでギラギラ日が照りつけると、ゆるキャラの縫いぐるみが暑くて堪らなくなった。重ねに重ねた我慢が限界に達する寸前、漫才まがいのやりとりが聞こえてきた。やっとラバナル・デル・カミーノに着いたのだ。バルとアルベルゲを兼ねた建物の前で、座ってなにか飲む女性が洗濯物を干す男性とじゃれ合う。妻が「ここに泊まろうか」と提案。しかし、「もっとましな宿がまだあるかもしれない」と私が却下。すれ違った韓国の青年が「この先のアルベルゲは、お布施だけで料金は払わなくて済む」と教えてくれる。
  “お布施(ドネーション)”という言葉が、すんなりと素直に受け止められない。親切に声をかけてもらったが、真っすぐは進まず左へ曲がった。こじんまりした広場を2つのアルベルゲと1つのホテルが囲んで立つ。突き当りのアルベルゲへ歩を進める。アルベルゲ・ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラールは一瞬、レオンの苦い経験を彷彿させる。頭の中でどん底のテーマソングが響き始める。だが、相違点が1つだけあった。レオンで遠来の日本人を圧倒した人間臭が欠けている。働きかけを拒む無機質ぶりがどこかしら漂うのである。
  うまく説明できないけれども、全体の配置は、開けっ放しの厚い木製扉のすぐ横がオフィス、その先が吹き抜けの中庭(一部は物干し場)、さらに進むと土間(右側はバルと食堂兼厨房)、いちばん奥にドアで仕切られた寝室ゾーンといったところであろうか。寝室ゾーンと土間の間にシャワー3つ、トイレ1つが並ぶ。私の指定されたベッドは、下の段だったが片側にひどく傾いている。シュラフに首まで包まってしまい、支えがなくなると手すりまで滑る。夜が怖い。その手すりがとても低いため、外に落ちる危険性が少なくない。
  暗い寝室ゾーンにあまり長くいるとだんだん気が滅入ってくる。高地ならではの清々しい空気を胸いっぱい吸おうと近隣の散策に出かける。もっとも、目新しい発見で次々楽しませてくれる玉手箱など、人口50人と噂される小さな集落がもつはずもない。一時は廃墟になりかけたそうである。しかし、あちらこちらに片づけられたテーブルや椅子、折りたたまれたパラソルを見かける。1ヶ月後のヴァカンス・シーズンには観光客で賑わうのだろう。歴史に裏付けられる巡礼も、レジャー産業と結託しないと維持不能となっている。
  到着の際、目をつけておいた超ミニスーパーでバナナ2本と500mlのミネラルウォーター2本を買う。バナナの束を前に妻が、「ちぎって構いませんか」と訊くと、中年の女性店主は、逆に「日本人の方ですね。」と返した後、「韓国人なら、そんな風に断らないでどんどんちぎっちゃう」と吐き捨てた。優しい顔に似つかわしくない強い口調が、彼女の怒りのすごさを物語る。調子に乗って「中国人はどうですか」と口に出しそうなった。もちろん、そんな失礼はぐっと飲み込む。そもそも中国人は、いまのところカミーノ・デ・サンティアゴで見かけない。
  30~40分でアルベルゲに戻る。乾きそうにないので、洗濯は渋々断念する。昼寝をする気分にもならず、シャワーを浴びることにした。収容人数72名に3つしかないのでは、満杯ではないかと心配したが、運よく中央の1つが空いていた。その前にトイレで用を足そうとノックすると、1つで大混雑と思ったのに返事は聞こえない。改めて耳を澄ますとシャワーの音が、気味悪いほど静かである。寝室ゾーンで行き来する場合も、黙って軽く会釈して通り過ぎる。想像にすぎないが、たぶん宇宙船内はこんな具合であろう。
  この集落には他所の客を招き入れる類のレストランはない。恐らく食事は、アルベルゲやホテルが各々の泊り相手につくる。そう自分勝手に解釈して私たちは、バルの女性スタッフにお任せ料理と赤ワインを頼む。食堂の片隅に座って注文品が出てくるのを数分待つ。もう一方の隅にあるコンロで自炊グループが、大鍋で湯を沸かしたりまな板で野菜を刻んでいる。やがてレオン名物のセシーナ(牛肉でつくった生ハム)が、直径40cmはありそうな皿に山と盛られて現れた。このスーパーサプライズであらゆる憂さは吹き飛んだ。
  巡礼開始以来、初めての満腹感とほろ酔い加減で安らかな眠りに浸るはずが、危うくベッドから転がり落ちる恐怖を何回か味わうと、この旅もここで幕引きとなるのかしらという心配に転化した。たかだか50cm程度の高さであってみれば、ごく軽い捻座か打撲傷で済む話にちがいない。ずっと後に理詰めで精査すると、心配不要なことは一目瞭然である。しかし、翌日に最難関のイラゴ峠越えを期する私は、万全の体調で踏破するために是が非でも十分な睡眠をとろうと焦れば焦るほど目がさえるジレンマに陥ってしまう。

巡礼5日目(ラバナル・デル・カミーノ⇒モリナセカ) 
  5時30分に起床。先ずは今まで潜っていたシュラフを畳むが、相変わらず空気抜きがうまく行かず右往左往。しかし、ヒロ君の助言通りバックパックの外で下げるよう変えたので、以前ほどはカヴァーに詰め込む作業であたふたしなくなった。高機能タイツにわが身をねじ込むのは、いくらやっても慣れない。引っ張ったり押さえたりすると、下に穿いているパンツがよじれて固まる。5本指の足袋もきちんと正しく指が収まるまでに時間がかかる。だいぶ短くなったように感じるが、やはり30~40分はかかってしまう。
  オフィスゾーンの厚い木戸を開けると、悪い予感がぴったり当たり雨が降っている。勢いはさほどでもないが、粒は大きくがっくりする。寝室ゾーンに戻りはしないで、その場で重装備に衣替えをする。といっても、バックパックからレインウェアー上下とスパッツを出して身に着けるだけである。傘はささない。レインウェアーはそこそこ重いので、背中が軽くなった分いささか心許ない。バックパックにもカヴァーをかける。15分ぐらい出発が遅れた。反面、悪天候で気合が入る。さあポールを握り直してイラゴ峠攻略だ。
  登坂であるがアスファルトで舗装されているので、雨で濡れた衣服や装備は重いけれど歩くのに支障がない。ちょっと前までは土の道で、泥んこになって大変だったらしい。レジャー化のもたらす好影響といえるかもしれない。メガネをかけているせいで帽子の上にフードが被さると、目線が一方向に固定されて黄色の巡礼標識をつい見逃す。ガイドブックに左方向の電波塔を目指せと書いてあるが、仰向くと目に水滴が入って探し物どころか歩行不能となる。あまり枝分かれがなかったので、なんとか迷わずに目的地に着いた。
  目的地は、フォンセバドンである。一度は廃村の憂き目を見たらしいが、現在は宿泊施設が4軒ある繁盛ぶりだ。それらのうちの1軒に併設されたカフェで朝食をとった。今日はパンをクロワッサンではなくボカティージョにした。たんにパンだけでなく生ハムやサラダで力をつけようと考えたからである。飲み物は、カフェ・コン・レーチェとスーモ・デ・ナランハと変わらない。昨夜のセシーナに心底感激した余韻が残っているためか、サラダはともかく生ハムはさほど美味しいと思わなかった。あちら立てればこちら引っ込む。
  晴天の際より歩行時間がかかるため、長居はしないで慌ただしく出発した。国道を横切って約2kmほど進むと、かの有名な鉄の十字架が現れるはずである。大詰めで200m近く登っているから、後100mかそこらで姿を見せるに違いない。感動いっぱいで爆発するつもりが、あに図らんや行き過ぎそうになった。珍しく何人かが集まっているので、首を巡らしたら十字架があった。雨に注意を散らされて、気持ちの整理がつかない。とりあえず、言い伝えに従って小石を1つ土台あたりに置く。こんな心の籠らない仕草ではご利益は望めそうにない。
  なぜか空き地にタクシーが数台止まっている。2~3名の巡礼者が呼び止められ、運転手となにか込み入った話をする。友好的というより険悪に近い雰囲気である。聞き耳を立てたところで所詮無理なので、ここは長居は無用とばかり立ち去るに限る。サリアを過ぎて旅の終盤に差し掛かりつつある段階で、ようやく鉄の十字架付近で遭遇した事情が飲み込めた。タクシーは巡礼者や彼の荷物を指定場所まで運ぼうと止まり、運転手が引っ掛かりそうな客に目をつけ交渉していたのである。私たちは、対象外とみなされたらしい。
  鉄の十字架は、標高1,505mにある。この地点を通称イラゴ峠と称する。しかし、いわゆる標高1,515mの頂上は、もっと進んでマンハランを通り過ぎたエル・アセボの手前である。どこが最高地点であるか確かめようとするが、にわかに霧が立ち込めて何も見えなくなった。国道とほぼ並行して歩くかたちになっているため、注意深く標識を確かめる必要がなさそうだから助かる。アセボで小休止をするうちにしつこく降った雨が到頭止んだ。ゆるキャラ状態を即座に脱したかったが、また雨が降らない保証もないので諦める。
  巡礼路は、ひたすら下りに下る。最高地点のイラゴ峠から今夜の宿泊地モリナセカまで900mを一息に駆け降りるわけである。2色の捻じり飴みたいに国道と間断なく交差し続けるので、のんびりスペインの農村の風景を楽しむ気分にはならない。道が濡れて俺の出番とばかり、黒い巨大なナメクジが登場する。前に鳥の図体がやけに大きいことは述べた。それと符丁を合わせるかのごとく道に侍る、長さ10cm、幅5cmの異様な姿に息を飲む。あちこちに踏み潰された死骸が転がる。それらをうまく避けるのが至難の業だ。
  アセボを発って退屈に10km弱進んだあたりで、上映終了直後の映画館のように視界がぱっと開ける。美しく整備された幅の広い道路の彼方に玩具みたいな館が行儀よく建ち並ぶ。その手前をゆったり流れる川には、7つのアーチをあしらった優美な橋がかかる。お伽の街が私たちを歓迎する様子に佇む。今夜の宿泊地モリナセカである。橋の向こう側の川岸で4~5名のグループがグラスを片手に談笑している。一刻も早く自分たちもあやかろうと、知らず知らず歩く速度が上がっていく。そういっても背中の荷は、やはり重い。
  川岸沿いのオスタル・エル・プラシオに入って宿泊の手続きをした。安眠できなかった昨夜の分を取り返したかったからである。貯まった洗濯物を頼む狙いも正直いってあった。洗濯(乾燥も含む)込みで50ユーロ。部屋で身に着けたすべてをさっと脱いで、シャワーで汚れや汗を丁寧に洗い落とした。結構な量となった洗い物を指示通り受付カウンターに運び、今夜中に部屋の前まで洗濯済のものを運んでもらうよう頼んだ。さっぱりしただけでなく十分元気が残っていたので、晩餐のレストランと街の佇まいの探索に繰り出す。
  宿の女性スタッフに教えてもらった目指すレストランを、田舎にしては立派な薬屋の店員のアドバイスで確かめた。部屋に戻って少し休んで訪れたカーサ・ラモンは、地元の評判を寸分も裏切らない素晴らしいレストランだった。本日のお薦めとキノコのサラダを頼んだが、このまま昇天しても後悔しない美味である。ワインとの相性がまた堪えられない。たらふく食べたからお腹がはち切れそうで、デザートは、残念ながら遠慮することにした。そして、シェフに満足の旨を述べて退出しようとしたら、待てと呼び止められた。
  ホルゲ・バルボアさんは、レスラーと見紛う体格の割に明るく気さくなスペイン男児である。一緒に写真撮影をした後、ぜひともデザートを味わってほしいと厨房に行って2つ持ってきた。日本とスペインの橋渡しをした日本のNPOの代表が、このレストランを訪れて地元の有力者たちと友好を深めたらしい。「セニョール鈴木を知らないか。」と訊ねられたけれど、もちろん降って湧いた話にうまく合わせられるはずがない。あちらもそれは計算済である。「今度来る際は是非、うちの宿に泊まってほしい」という声を背に退出した。



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