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2017年6月1日

スペイン巡礼の旅⑤ 第4章 起死回生 影山喜一

巡礼9日目(ポイオ峠⇒サモス) 
  5時30分に起床。6時ちょっと過ぎに恐る恐る階段を降りオスタルを出ようとすると、いずこからともなく役立たず親父が登場し扉の鍵を開けてくれた。反射的に「グラシアス」と礼を述べて握手した。その際の彼の顔といったらなかった。くしゃくしゃの皺の中でクリッとした目が笑っている。ざらざらでごつごつした手は、骨太かつ肉厚ですごく温かかった。スペイン語でやりとりできたら案外と面白い人物かもしれない。外見というか第一印象だけで軽々しく相手の人柄や力量を決めつけてはいけない、と心の底より反省しつつ外へ出た。
  高所のためだろうか予想をこえて肌寒い。慌ててバックパックからシャツを出して羽織る。過剰反応かと思ったが、脚にもスパッツを着ける。もちろん手袋をはめるのも忘れない。首にタオルを巻いて帽子も深くかぶる。一連の手順を要領悪くやっているうちに空気は和らいできた。スパッツを外したほうがよいかとかタオルをしまうべきか一瞬迷うが、折角時間をかけて用意したのに今更とかまた冷えるかもしれないと思い直す。こんな具合で第一歩を踏み出すまでに果てしなく逡巡するところがまさしく初心者の特徴である。
  今日の行程は、私たちのトレッキング能力に照らすと無謀かもしれない。いや間違いなく“かもしれない”ではなく“である”が正しい。標高1,330mの現在地ポイオ峠から同じく670mのトリアカステーラまで700mを下った後、息をもつかずに300mの登りと下りを行う無茶な企てである。前半のポイオ峠‐トリアカステーラ間12kmと後半トリアカステーラ‐サモス14kmの合計26kmは、距離においても超ハードといえる。下りの1,000mは、歩き旅の初体験者にとって恐怖以外のなにものでもない。
  素人考えでは下りに比べて登りがきついととらえがちだが、実際は後者より前者のほうが遥かに大変なばかりか危ない。なにか起こっても登りの場合は手をついて四つん這いになればよい。格好は悪いけれど、怪我の心配は少ない。しかし、下りは問題だらけである。躓いたり滑ったりして転倒すれば、たんなる打撲傷や骨折に止まらず、最悪のケースでは再起不能や死亡という重大事故も高い確率で起こりうる。足場が不安定で苔むすとか濡れて滑りやすい状態であれば、痛ましい結果を生じる可能性は無限近くまで跳ね上がる。
  県道‐633号と併行に狭い路がアップダウンを繰り返す。あたり一面に充満する牛の糞の臭いで息が詰まる。フォンフリアを経てビドゥエドに至る3kmは比較的なだらかだが、その後のトリアカステーラまでの悪路7kmはかなり傾斜が急である。途中でいくつか休憩できるカフェ/バルを見かけた。しかし、本日の目的地は当分辿り着けるはずがない長丁場であるから、道草は極力我慢してとにかく気力で歩けるだけ歩くことにする。典型的な農家が固まって数軒建つ場所では、手綱のない中型犬が数匹うろうろ歩いている。
  日本では手綱をしないで犬と外出すれば、たちまち多方面からお叱りの声が上がる。実際、わが家の場合もそうだが、日本の犬はなぜか行儀が悪い。その点、欧米では犬のトラブルに出会ったことがない。ロンドンの地下鉄で座席にきちんと座る様子をみて感動した。スペインのカミーノで飼われる犬たちは、ただ所在なくうろついたりごろ寝をするばかりではない。たくさんの羊を巧みにコントロールする牧羊犬は当然として、牛の群れを狭い路できちんと整列・進行させたり、トラクターの助手席で安全運転を可愛く見守る。
  昔は城が3つ並んでいたのだろうか、街の名前の由来を想像してみたくなる。トリアカステーラは、人口800人弱の上品な街である。サンティアゴ教会のちょっと触れただけで崩れそうな石室の屋根に乗っかる鐘楼がなんとも可憐で心を打つ。地味なカフェで昼飯をとる。オバマたちアメリカ学生グループのほか、巨大というしかない黒人女子学生が隅っこに座っていた。彼女の勧めでハモンのいっぱい入ったトルティージャを頼んだ。初めは食欲が湧かないはずだったが、だんだん空腹感が高まり半分づつでは足りなくなった。
  幅1m足らずの路の右側に高い木々が連なり、左側は厚く茂った叢の下で水の流れる音がする。向こうから誰も来る気配はないが、万が一来てもすれ違うなどできない。変な道に迷い込んでしまったかとも思ったけれど、カミーノ・デ・サンティアゴの黄色の記号が憑いて離れない。やっと行き止まりにぶつかり這い上がると、3m幅ぐらいの広い路が左右に広がっている。一瞬木偶人形のように放心状態でただ立ち尽くすと、アメリカの大学に留学中の日本の学生が挨拶をして抜き去る。休暇の開始と同時に飛び出して来たらしい。
  アメリカの(留学生も含む)学生たちが続々とスペインの巡礼路を訪れるのにびっくりしている。息子をピレネーの山中で亡くした父親が、断絶状態にあった彼を知るため、彼の辿ろうとした路を歩く、「ザ・ウェイ」という映画が大ヒットして以来、カミーノ詣でがアメリカで注目を浴びるようになった。それは、こちらに来る直前にビデオで観た。帰国後、アパラチアン・トレイル3,500kmを中年男二人組で踏破する、レッドフォード製作・主演の映画「ロング・トレイル」が話題をさらった、と風の便りに聞いている。
  アジアと違い欧米の青年は、マスメディアの煽る流行にぜんぜん乗らないと考えていた。なにごとにつけ自分の意見がきちんと表明できる点に魅力を感じて止まない。偏見もいくぶんあるかと思うけれど、日本や中国や韓国の連中とは異なる、と信じて疑わなかった。彼らは、ハリウッド映画なんか観るのだろうか。まあ上の2作品については、出演メンバーに著名人が加わるにせよ、大手企業が大金をかけている節はない。映画を拠り所とする流行に踊らされていないなら、なにが彼らを遠いヨーロッパに誘ったのであろうか。
  トリアカステーラを出たとたん、県道LU‐633にぶつかって巡礼路が左右に分かれる。左の路は、概ねオリビオ川沿いであるが県道に併行してサモスまで続く。右の路は非舗装率60%(ちなみに左は36%)で景色を満喫でき、途中のフレラかピンテインで泊まる旅程が一般的である。両者は、サリアの手前4.5km付近のアギアダで合流する。私たちは、まったく迷わずに前者に決めた。スペインでもっとも古いベネディクト派の修道院が存在するからである。自然への関心よりもむしろ宗教的興味が勝った選択といえる。
  ナチュラリストの書いたガイドブックと裏腹に、ほぼ10kmの前者はサンクリストボやレンチェの処々で潺の響きや水しぶきで癒してくれた。ポイオ峠のオスタルで挨拶した日本男性が、高機能タイツ姿で眼の前を颯爽と走り去った。ドイツ女性と一緒でなかったが、荷物は二人分背負わされていた。よくやるではないかと羨ましく思う。アジャ・コングを連想させるアメリカの黒人女子学生は私と同様、両足を痛めたらしく象ガメに似た動きで歩いている。ゆらーりゆらーりと身をくねらせながら進む彼女の身上は、ノンストップである。
  舗装された広い路の先に修道院の巨大な建物が天高く聳える。やっとサモスに到着した。いらっしゃいと一角にあるアルベルゲの入口が招く。無視するわけにもいかず覗いてみる。多数の巡礼者の応対でスタッフがてんてこ舞いである。だいぶ時間がかかりそうだととっさに判断し、先ず街の様子を探る作業に向かおうと考えた。修道院の外縁をなぞるかたちに100mほど進むと、切れ目の十字路にオープンテラスのバルが2軒向き合う。そういえばアルベルゲの対局にもバルがあり、懐かしいオバマ・グループがたむろしていた。
  休まず100m当てがあるわけもないものの導かれるように行くと、お伽噺に登場する魔法の館さながらのカーサ・リセリオが突如現れる。ノックに応えてアングロサクソン系の若い女性がわずか4室を案内してくれる。泊まる旨を即答してラウンジで少し話す。「冷たい飲み物、ビールとミネラルウォーターのどちらかを選んでください」というので、ビールを頼んで喉の渇きの和らぎに乗ってしばらくサモスの現状を教えてもらう。夕方5時に“Welcome tapas hour”と称する巡礼者たちの交流イベントを毎日開催していると彼女は締めくくった。
  30歳前後にみえる女性は、カーサ・リセリオのオーナー兼スタッフの米国人アシュレー・ウィーバーさんである。カミーノ・デ・サンティアゴに魅せられた末、同じ喜びを広く味わってもらおうと、今年の6月1日に立ち上げたらしい。外国人がスペインで新しい事業を営むのは、さほど容易いことではないはずである。アシュレーさんの経歴について知る術がまったくないけれど、「Everyone has a story」なる彼女のモットーは胸に深く響く。いろいろ教えてもらおうと思ったものの、Welcome tapas hourは出席しないで終わった。
  夕食は、アルベルゲの向かいのアル・バロケで大いに楽しんだ。スイス製のアーミーナイフが壁狭しと厳めしく飾ってあり、名物のサクランボのジャムがカウンター横の棚にずらっと並ぶ。途中、6時30分のミサがあるとかで客の多くは食事を中断し席を立った。妻も是非参加したいと消える。レストランは、急にがらんと寂しくなった。だが、このような場面はまさしく、生来の天の邪鬼ぶりを発揮する絶好の機会である。私は、断固席に留まりステーキとリオハの赤ワインを堪能する。戸口に出て外を覗うと、だいぶ暗くなってきた。
  もっとも、今回に限っては自分の天の邪鬼がつくづく嫌になった。信仰の有無にかかわらずミサも当然ながら出席すべきであったと心底後悔したが、それ以上に修道院内に展示してあるカリクスティヌス写本の複製はぜひ観たかった。売店があって写本のカタルーニャ語訳を購入できたと後で伝え聞き地団太踏んで悔しがったのである。なんのために遠路サモスを訪ねたのか、どうして巡礼などする気になったのか、こんな具合にチャンスを逃して大丈夫なのか、といった慚愧の思いにその後の道中に加え帰国してからも捉われた。
  ワインの酔いを冷まそうと修道院の裏の公園をぐるっと迂回して宿に帰る。すでに皆寝静まって静かである。頼んでおいた洗濯物は、まだ約束の場所に置いてなかった。翌朝になるかもしれないといっていたので、たぶん起き抜け早々1階に降りて行けばある。彼女は、乾燥までしてくれるらしいが、室料40ユーロしか請求しない。オスタル建設の経緯やモットー「Everyone has a story」を含めてじっくり話してみたい女性である。修道院もそうだがサモスは、今回で滞在した気になってはいけない。再度、訪れるべきと肝に銘じた。

巡礼10日目(サモス⇒バルバデロ) 
  フワフワになったシャツや下着が、2Fのラウンジの机の上に約束どおり重ねられていた。それらを手早くバックパックに押し込んで、抜き足差し足で階段を降り外へ出ようとした。ところが、3つ組み合わさった閂というか厚い木製の扉の鍵がどうもがいても開かない。最初は静かに動かしていたが次第にガチャガチャと騒音を出し始める。気が付くとガウン姿のアシュレーさんが現れて、手際よくささっと解錠し笑顔で送り出してくれた。絵に描いたような“オモテナシ”である。真似ができるだろうか、と柄になく自問した。
  家並みの途切れる外れの片隅に聖人たちの石製の群像が建っていた。さすがに修道院の君臨する街である。軽くお辞儀をして去る。しばらく県道LU‐633と併行の後に右へ方向転換し、両側から木々の覆いかぶさる小路をオリビオ川の流れに導かれてテクテク進む。あまり起伏が目立たず根っこや石ころも少ないため足元に注意を払わなくて済む。だが、いくら頑張っても休憩場所が一向に現れない。仕方がないので1時間ごとに立ち止まってバナナとミネラルウォーターを貪る。人の顔を見たいと思ったら、アギアダでやっと念願が叶う。
  トリアカステーラで別れて右側のルートを選んだ巡礼者たちが合流したのである。約12kmは野外休憩で我慢するしかなかった彼らには同情を禁じ得ない。いくら景観が素晴らしくても花より団子の私には、選択肢として登場しようのない話といってよい。タベルナ・デ・カミーノは、腹を満たしたらすぐに発ちたくなる店である。だが、こんなに大勢の人が巡礼路にいたのかとびっくりさせられるほどの賑わいで辺りは噎せ返っていた。周囲の空気とそぐわないと気づきつつも、私たちは一路サリアを目指すしかなかった。
  サリアは、14,000人の人口を擁するガリシア州ルーゴ県の重要都市の一つである。実際、外縁部を通り過ぎ中心に踏み入ると、私の住む浜松も顔負けの人混みに驚く。すでに正午を回って腹の虫が騒いでいる。しかし、ここでしかできない作業を先ずは済ませる必要がある。それは、なにを隠そう両替にほかならない。オスタルやレストランで現金を使い過ぎた。アルベルゲや路辺のバル/カフェでカードが使用不能であるのは自明として、ある程度の規模の街の施設では現金よりカードこそをむしろ使うべきであった。
  賑やかな場所に行けばきっと銀行がある、ひょっとすると両替屋もあるかもしれない。そのような皮算用を手早く行った上で大通りを、黄色のペンキで書かれた矢印に従って歩いてきた。しかし、頭を冷やしてみれば矢印の示す先は、サンティアゴ・デ・コンポステーラであって銀行や両替屋ではない。大きな街となると主要施設が賑やかな一箇所に集中するとは限らない。ここは当てもなく動き回らないで地元の物知りに訊ねるべきであろう。ちょうど恰幅のよい初老の男性が来たので、どこに銀行があるか教えてくれるよう頼んだ。
  やっと見つけたもののサンタンデール銀行では嫌というほど待たされる。2つの窓口のうち1つは、上客用らしく年配の店員が丁寧な応対を繰り返し、流れが遅いばかりか終わったとたん閉まった。もう1つは、通帳片手になにやら訴える連中で列がなかなか途切れない。順番がきたと喜んで両替の可否について伺いを立てるが、散々こちらを焦らした末に他の銀行へ行けと追い払われる。すぐ裏の地方銀行に仕方なく入って懇願してみるが、「サンタンデールで駄目なのに、こちらでできるわけがない」と素っ気ない応対である。
  いよいよ闇金ではないが素性の知れない両替屋を探すしかなくなった。こちらは通りすがりの地元民を摑まえても難しいと思い、ごみごみした裏通りに潜り込んで右や左と看板を見渡す。散々歩き回った挙句、ターゲットに行き着いた。正体不明の雑多な置物や衣類を天井からぶら下げるL字型の部屋の片隅に小さなカウンターがある。できれば話しかけたくないタイプの中年男性は、1万円がどのくらいになるかと訊いたところ、70ユーロという数字をスマホで即座にはじき出した。出国時のレートを当てはめれば、77.5ユーロになるはずである。明らかにぼっている。
  再び黄色の巡礼の矢印を探り当てて進んで行くと、両側に宿泊施設や飲食店が向き合う小路が現れた。椅子に座ってギターを一心不乱に爪弾く若者がいるかと思えば、2階の手すりいっぱい洗濯物を万国旗さながら開帳する豪傑もいる。とても和やかというか温もりを感じる界隈である。すっかり気に入った。もっとも今は、すでに限界を越えている空腹を満たすのが最優先されねばならない。小路の端にあるメソン・オ・タパスでプルポとビールを頼む。店内は満員なので外のテーブルにする。楽しくて1時間半も居座った。
  広大なボスケ公園を横切って外に出る際、日本の常識と相反する光景に遭遇して驚く。公園内にあるさまざまな施設(子供の遊び場・図書館・博物館・保育所など)の周りに囲いが存在しない。日本の場合、各々が看板のもとで自分の領分を頑なに守る。とりわけ最近、子供の遊び場は、球技・楽器演奏・飲食・ペット同伴など、安全を錦の御旗に禁止づくめである。ここでは逆に、柵のない中で相互が自由に往き来できる。手綱のない犬が(飼い主と無縁の)子供とじゃれ合い、小学生ぐらいの少年たちがサッカーで走り回っている。
  国立環境博物館と看板を掲げる立派な建物が聳え、横に7~8mあろうかという高い陸橋が並行して設けてある。中学生の高学年ではないかと思われる団体が頻繁に建物から出入りする。中年の女性教師の鋭い掛け声に応じて、集団が組体操のようにペースを変える。ごみ処理設備の実物大の模型があって見学させてくれるらしい。私も、巡礼中でなかったら是非とも目にしたいと思った。この種の施設が存在する事実は、盤石の社会基盤がしっかり備わるサリアの底力を内外に示す。両替では嫌な経験をしたが、もう一度訪れたい街である。
  マグダレナ修道院を右に眺めつつ左折ししばらく下り、セレイロ川を渡った後に線路を横切ると一本道が延びる。と場面はそれまでと一変して、ほぼ数m間隔で人波が流れる。“難民もどき”などと軽率に呼んだらネットで吊し上げられるかもしれないが、10日間にわたり見慣れた人たちと明らかに異なる類の個人やグループが多い。なににもまして出で立ちと服装、なかでも服装の違いには開いた口が塞がらない。ポーチ片手に足取りも軽く颯爽とパンプスで闊歩する女性がいる。また、デイバッグを背にカメラで当たり構わず撮りまくる人も目立つ。
  こうした男女は、20~30分歩いて辿り着いた一角に停車する観光バスで巡礼を終え、次のスポットまでガタガタ揺れる車中でわれわれの噂話をするのだろう。最近、日本でも、人気のある世界遺産巡りの代表格サンティアゴ・デ・コンポステーラ訪問に加え、前座企画として一部巡礼路を実際に歩く体験ツアーが新聞やネットで喧伝されている。ハイライトのサンティアゴ・デ・コンポステーラとさほど離れていないサリア近郊が、旅行会社のスペイン北部ないしスペイン・ポルトガル対象プランに乗りやすいのかもしれない。
  ツアーの観光客と一線を画すグループがもう1つ存在する。サリアは、巡礼のゴールから114kmの地点に位置する。以前に述べた通り巡礼証明書を発行してもらえる最短距離が、徒歩100km、馬・自転車200kmである。したがって、費用対効果を狙えば徒歩の場合、バスや列車のアクセスにおいて好条件で巡礼路と重なる都市がサリアになる。1週間以上の休暇を取りにくい人も、同じく証明書が欲しいとすると、サリアを拠点とするしかあるまい。そんなこんなで最後の100kmあたりより急に巡礼路が込み合うのである。
  サモス‐サリア間は、17~18kmの全長がほとんど平らの路行きであった。日差しもさほど強くなく気持ちよく歩けた。ところが、今夜の泊まりを予定するバルバデロまでは、標高差100mを休まず一気に登るつもりである。サリアで休憩時間を多く費やしたつけは、なんとしてもその日のうちに返さねばならない。いかなる場合においても、可能な限り借金ゼロが肝要といえる。ともあれ、何杯飲んだろうか、ビールの酔いがボディーブローのように効いてくる。あまり周囲の風景に気を配る余裕もなくなりつつある。
  バルバデロで絶対泊まろうと決めてきたカーサ・バルバデロ・ゲストハウスは、満員のため断られた。庭先でオバマたちアメリカ学生グループが話に興じる。ずっと行方不明だったのに肝腎な場面でひょっこり登場する。小憎らしい連中である。すぐ裏の“サンティアゴへ108”という奇妙な名前のオスタルに運よく空き室があった。ただし、トイレ・シャワーは共有と告げられてがっかり。2階を独占できるかと期待したものの、万事がこちらに都合よいはずもなかった。案の定、老夫妻が大きな荷物を抱え息絶え絶え登って来た。 
  下着など最小限の洗濯をし窓の手摺に干した後、まだ少なからず時間があったので周囲を散策した。人の声が聞こえるのは、ほんの30m四方といったところである。ロマネスク様式のサンティアゴ聖堂を探したが、いつもながら要領が悪くて見つけられなかった。そうこうするうちに夕食のタイミングがやって来た。本当に花より団子で困ったものだと卑下しつつ目指すレストランへ向かう。ご馳走で舌鼓を打つ光景に抗し難い期待を膨らませながら進むと、かなり広い庭いっぱいに20以上のテーブルを囲んで客たちが群がる。
  わざわざ寄り道などしないで直接押しかければよかった後悔する。外は席がなさそうだから部屋の中の席を頼む。こちらは結構空のテーブルが目立つ。コンセントにコードを繋ぎヘッドホンの音楽で桃源郷の若い女性がいる。きっとリゾート気分なのだろう。そうはいってもひたすら開放感を爆発させる観のある外に比べて、こちらには親しかったり大事だったりする相手と話す楽しみが充満する。絶妙のコントラスト!どちらか一方に客の嗜好を力ずくで誘導することなく、客に一部とはいえ選択の余地を残す店づくりが心憎い。
  メニュー・ガリシアに出た牛肉のソテーの素晴らしさは、ワンランク上のリオハワインとデュエットしバルバデロの評価を引き上げる。追加注文したサングリアの香りも忘れ難い。と斜め前に座っている東洋人の若い美女と一瞬目が合った。にっこり微笑し会釈する顔に何度か出会ったことを思い出す。ポンフェラーダのカフェで欧米の老女とパンを齧りながら英語で議論していたのを見たし、オ・セブレイロを過ぎた狭い山道から出たところで「日本人の方ですか」と声をかけられた。凛として気高いマドモアゼルは、残念ながら日本ではなく韓国の女性であった。
  すっかり上機嫌で多少千鳥足気味になって戻ったが、建物の扉の鍵を開けて忍び足で階段を上ったとたん、とんでもないというか前代未聞の鉢合わせが起こった。恐ろしい叫び声をあげてバスタオルで前を隠した裸の人間が、私たちの隣の部屋へ飛び込んだのである。シャワーを浴びて廊下に出てきたところ、ひっそり音を立てずに私たちが現れた。ご主人か奥さんかわからないが、突然の出来事に驚いたに違いない。しかし、水回りが共同であってみれば十分ありうることだ。今日もいろいろあったなあと呟いてベッドで広げたシュラフに潜り込む。

巡礼11日目(バルバデロ⇒ポルトマリン) 
  たまには腹ペコでない状態で発ちたいと考え、前日注文し代金前払いで朝飯が出ると聞いて、あまり深く検討せず二つ返事で頼んでしまった。1階の食堂に用意してあるとの話を信じて、すっかり身支度を整え部屋に入って驚いた。厨房の片隅のテーブルに紙袋詰めのパンが4つ並び、ホットプレート上で煮立つコーヒーポットが焦げ臭い。冷蔵庫を開けるとサイドボックスに牛乳とジュースの紙パックが立っている。ミネラルウォーターが必要であれば1ユーロ置いて持って行け、とマジックペンで書いた付箋が扉に貼ってある。
  相当使い古したバラバラのマグカップにポットのコーヒーと紙パックの牛乳を注いだものの飲む気にならない。ジュースもスーモ・デ・ナランファとは似ても似つかないシロモノである。パサついたパンに(ホテルでお馴染みの)極小パックのジャムを塗るけれど、どうしても喉を通らないので結局ここでは我慢し朝食はとらないことにする。とんでもない早朝から限られた客相手に低料金で手作りの食事などを提供する宿泊施設がある、と真っ正直に受け止めてしまった私たちの方が間違っているのは今となってみれば明らかである。
  期待が大きかっただけに落ち込みもすごく、広葉樹林のアーケードの下をよろよろ歩く。夜が明けたはずなのに足元は依然薄暗いままである。県道LU‐633を横切ってしばらくは剝き出しのアスファルトが途切れずに続く。再び木々に頭上をすっぽり覆われた路行きがあり、さらに30分進むと高速道路を照らす空が現れる。そんな明暗の繰り返しに退屈し始めた頃、シャコベ(ガリシア州の巡礼マスコット)を看板とする泉が突如登場する。記念撮影を行うカップルが何組もいた。ちょっとだけ癒された気分に浸り生き返る。
  しかし、もう少し休まないで頑張る。次の休憩で朝食をやり直そうと思ったからである。立ち寄ったカーサ・モルガーデは、木漏れ日の中のバル/カフェらしからぬ混雑ぶりで驚いた。外に5つあるテーブルは、それぞれ5~6名が固まって割り込む余地がない。建物の内部は、大勢が群がり注文もできないかもしれないと思ったが、4つ散らばって置かれたテーブルは2つしか埋まっていない。その上、なんとも珍しい光景を目にした。カウンターを除いた通用口以外の三方の壁に、無数のバックパックが整然と立て掛けてある。
  食事や休憩で寄った場合、荷物は手の届く場所に置くか、知り合いに見張りを頼むだろう。そもそも短時間手を放すとしたら、すぐ戻って背負えるように放置する。位置決めをしてきちんと並べたりはしない。疑問を解き明かすために近づいて覗くと、どのバックパックにもなにか付箋が貼ってある。受付場所・依頼者名・電話番号・宛て先など。一瞥しただけで詳細は、もちろん確かめない。そこで突如、閃いた。外で騒々しく浮かれている連中の一部が、次の宿泊先まで足手まといになる荷物を宅配便で送ろうとしているのだ。
  サリアを過ぎた辺りからバル/カフェの周辺に駐車中のタクシーが目立った。一般住宅の庭先に止まっている例もある。たぶん住民のサイドビジネス(あるいは本業)なのだろう。雨の降るイラゴ峠付近で呼び込みをしていた運転手は数名いたが、荷物だけを客の申し出る宿へ届けるサービスは想像もしなかった。今にして思えば料金の交渉をしていたのか、熱心に話し合う巡礼者は見たような気がする。しかし、実際に乗り込む姿は見ていないし、荷物だけを載せるシーンもなかった。異なるタイプの巡礼者が加わったのだろう。
   狭い農道に入ると、ガリシア地方の名産の栗が、まだ収穫には遠いけれど、緑の実をいっぱい実らせる。サクランボもぶら下がっている。至る所に“勝手に採るなかれ”の立て札が立つ。モルガーデからメルカドイロまで5~6kmは、のんびりと木の実の熟し具合の観察に最適なアップダウンを繰り返す。その後は一変して急転直下300mを一息で下る。間もなく目的地ポルトマリンと胸の高鳴る地点で路が枝分かれする。標識によれば一方は距離の短い割に危険箇所があり、他方は安全と裏腹に遠回りになるということだ。
  足に自信がないのでもちろん後者を選ぶ。危険ではないものの民家の裏をすり抜ける路は、心ならずも泥棒になった雰囲気でなんとなく落ち着かない。ところどころに瓦礫が転がり安全とは到底言い切れない。そうこうするうちに幅広い舗装道路が現れる。反対側には大きな湖かそれとも川だろうか、きらきら光る水面が疲れて朦朧とする目に眩しい。別のルートを選んだ巡礼者たちが、どこからともなく続々と近づいて合流する。ブラスバンドの行進を思わせる。10mぐらい先を左折し延びる橋が目的地に誘ってくれるらしい。
  ガイドブックによれば歩行者を圧倒して止まない水の広がりはミニョ川である。ただし1960年、ダム竣工に伴って昔あった村と橋は、眼前の人造湖の底に沈む運命となったらしい。今でも天候の加減で水位が著しく低くなると、薄っすらと水底に眠らされた家々や橋が覘くとか。反射的に日本で起こった類似の事件、熊本県の川辺川ダム建設計画で水没の危機に晒されつつ半世紀も経つ子守歌で有名な五木村が思い起こされた。ダムのプラス効果を評価する時期に始まり、マイナス効果を危ぶむ時期まで翻弄が続いたのである。
  北イタリアのボローニャで公共事業について市役所の担当者の聴き取りを行った際、社会的プラス効果が議会で認められれば地権者の反対は問題にならない。ボローニャが高速道路計画から外されたのは、キリスト教民主同盟の中央政府がボローニャの共産党支配を嫌ったからだ、という説明を耳にした遥か昔の経験が昨日のことのごとく蘇った。ポルトマリンの住民たちは、涙を飲んで代々受け継いできた家々や諸施設の水没を認めたのか、あるいは電気の普及による生活レベル向上を信じて受け入れたのか。そんな想念が足取りを重くする。
  うんざりする長い橋の側溝みたいな歩道を進んだ末に金比羅まがいの石の階段が聳える。相当きつい勾配で頂の向こうに何があるかさっぱりわからない。いずれにせよ見上げて嘆いてばかりでも仕方ないので、バックパックのバランスを失わないよう一歩踏み出す。迂回路があるのだろうか、仲間がいなくて多少心細い。最後の一段を登り切ってなにが控えるかと眺めても、期待に反して5mほどの舗装された自動車道路のみ。がっかりだ。それをさらに渡るとやっとポルトマリンの街である。右の遠方にピッツァリアの看板が立っている。
  中央に自動車用の道路が真っすぐ延び、両側に商店や宿泊施設が切れ目なく並ぶ。きちんと計画に則って建設された様子が見て取れる。20mぐらい進むと左にロマネスク様式のサン・ニコラス教会がある。随分無休憩の強行軍で頑張ったから空腹は限界に達していた。まずは昼食にありつこうと首を巡らす。“ガスパッチョ(野菜をすり潰したスペイン名物の冷製スープ)があるよ”とチラシが貼ってあるメゾン・ロドリゲスなる店に喜び勇んで飛び込む。メニューそっちのけでガスパッチョとミックスサラダとビールを注文した。
  散々迷った後の主菜は、パワーアップを優先させて豚肉炒めにする。ガスパッチョは、予想を超えて美味しいったらなかった。身体全体から疲れと痛みがスーッと消え去る。香ばしい臭いでムンムンする豚肉炒めがカラカラに搾り取られたパワーを充填してくれる。私が欠食児童のように貪っている一方、妻はインターネットで宿探しに邁進した。アルベルゲでもよかったが、オスタルにしたいと考えた。とても居心地のよさそうな街で気に入ったので、少々洒落た気分でぶらつこうと思ったからである。食べ終わって宿を目指した。
  ペンシオン・マールは、通りの端っこに佇む家族経営の可愛らしい宿である。無骨だが好人物と一目でわかる親父さんと小学校高学年の眼鏡の息子とほとんど顔を出さない女将さんが、局外者には不明確な役割分担でてきぱき動く。ひょっとすると遊びも兼ねているのかもしれないが、息子はもっぱら玄関先のパソコンにへばりついている。女将さんは、中庭の片隅で洗濯に余念がない。親父さんは、特に客を呼び込むというわけでもなく、出たり入ったり玄関と路の間を往復する。予約の客が到着すれば、部屋まで案内してくれる。
  窓辺に近寄って見るとすぐ下のアルベルゲで巡礼者たちが洗濯物を干す。白を基調にした瀟洒な造りの建物でびっくりする。あっちに泊まってもよかったかなとちょっぴり後悔した。しかし、自由気ままに振る舞える利点はこちらが大きい。そう自分自身を納得させて外出することにした。クレデンシャルのスタンプ欄が少々寂しくなったので、この辺りで2冊目を確保するべきではないかと思い付いた。もっとも、こちらの腹積もりほどクレデンシャル確保は楽でなかった。宿の親父さんの教えてくれた雑貨店にはなかった。
  どこを探しても断られるばかりで困ってしまったが、時間もないため他の用事を片づける方向へ切り替えた。第一に、準本格的スーパーでバナナとさくらんぼとミネラルウォーターを買った。さくらんぼは、あちらこちらで見事に実った様子を見たので、店頭にあったら絶対買うと決めていたのである。第二に、足の指の治療方法を相談に薬局を訪ねた。白衣を着た美しい店員は、裸足になった私の指を覗くなり、言うに事欠いて「It’s impossible」と呟いた。それがびっこを引く客に告げる言葉か、と彼女の顔をぐっと睨む。
  まだ夕飯には早過ぎる。宿に戻っても退屈だ。どこか立ち寄るべき場所がないかと首を巡らせば、サン・ニコラス教会が扉を広く開け迎えてくれた。ミサ中であろうか司祭の話す前に10名ほどの参会者が頭を垂れる。後ろの通路に小さな机を出して30歳前後の女性が座る。なんと机の上にクレデンシャルがたくさん積んであるではないか。手を叩いて跳び上がりそうになる。彼女は、古いものにサン・ニコラス教会のスタンプと2016年6月27日の日付印、新しいものには巡礼事務所のスタンプと日付印を捺してくれた。
  一度宿へ戻って荷物を部屋に置いて、待望の夕食をとりに出かけようと思う。親父さんは、オ・ミラドールを強く推薦した。長い階段を登り切った傍らにあったレストランである。私たちも、行くならそこだろうと考えていたところだったので、一も二もなく賛成して再び教会の横を通って目指した。けれども、私たちがディナーのメニューを要求するや否や、スタッフは7時にならないとダメと冷たく答えた。1時間近く待たなければならない。明日の早朝出発を想定すると、7時に食べ始めるのは無念だが諦めるしかなかった。



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