2017年6月28日
高村光太郎先生の葉書(7) 大木 実
私があとにも先きにも先生とお会いしたのは昭和十八年のその一どだけということになる。
「おハガキ拝受、無事御帰還のよし、まづまづよかつたと思ひました。御健康に御留意、これから又たくさんお仕事をして下さるよう念じ上げます。小生遠い僻地にまゐつて居りますが、至極元気にはたらいて居ります。」
前の三枚のお葉書の差出しは本郷区駒込林町二五になっているが、このお葉書とあとの一枚は、岩手県稗貫郡太田村山口である。消印の日附は不鮮明だが昭和二十一年の筈である。先生の手で五月十日とはいっている。
年譜によると先生は前年(昭和二十年)の四月、東京のお宅を戦災で焼かれている。五月に岩手県花巻市の宮沢家へ移ったが、八月にそこも戦災を受け、十月に太田村山口へ移られ、そこで農耕自炊の生活にはいられた。夜具の肩に吹雪の吹き積るという山小屋でのまったく孤独の生活。この年、先生は六十三才である。
私の方は昭和十九年八月、海上勤務となり艦に乗った。十月の比島沖海戦では小沢部隊の囮艦隊に加わって生き残り、そのあと部隊と別れてシンガポールへいき、サイゴンへ移り、そこで年を送って終戦を迎えた。そして翌年(昭和二十一年)の四月に復員帰国した。