2017年6月29日
高村光太郎先生の葉書(8) 大木 実
最後の一枚のお葉書も太田村山口からで消印は二一、七、三〇である。
「詩集『初雪」忝く落手いたしました。よい詩がたくさん読めることと心うれしく存じます。御帰還後も御無事でお過ごしのことと存じます。ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。詩もたくさん書いてゐます。お礼まで。」
詩集「初雪」は私の五冊目の詩集で、比島沖海戦にでる前、あずけて置いた原稿がこの年上梓されたのである。
「詩もたくさん書いてゐます。」という先生のその詩は、翌年雑誌「展望」に連詩としてまとめて発表された「暗愚小伝」の一連の詩を指すのであろうか。
私の手許にいま残っているお葉書はこの五枚だけであるが、他にもなお一、二枚いただいた記憶がある。私が第一詩集を出すまえ、先生の詩に感動してお訪ねしたく思い、御都合を伺ったとき、いまは都合がわるいからとおことわりの御返事をいただいた。――そういう葉書もあった筈であるが、どうなってしまったかわからない。そのころの先生は夫人の御病気、そして死別などで心痛されていた時期にあたる訳だが、そういう御事情などは後にわかったことで当時の私は知らなかった。
先生は昭和二十七年十月、太田村由口の山中の生活を打切って帰京された。これは青森県から委嘱を受けた十和田湖畔の記念像を制作されるためであった。私は岩手山中の先生を一どお訪ねしたいと望みながら、私自身生活に追われたり、病気をしたりして遂にその機会を失ってしまった。