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2017年7月3日

スペイン巡礼の旅⑥ 第5章 悲喜こもごも 影山喜一

巡礼12日目(ポルトマリン⇒パラス・デ・レイ) 
  5時30分に起床。6時ちょっと過ぎに宿を出発。親父さんが玄関で見送ってくれた。握手すると肉厚でささくれだった手がとても暖かい。スーパーに降りる階段の横で昨日、なんとも奇妙な光景に出くわしたのを思い出す。ベンチが4つすべて通りに背を向けて置いてあった。別々のベンチに座ると顔を合わせず話さざるをえない。しかも、前の人も後ろを振り向かない。立ち止まり観察すると片方は相手の頭を見て話し、もう一方は相手でない人の頭に向かって話すのである。スペイン語が堪能ならば是が非でも、どうしてそうなるのか確かめたかった。
  オ・ミラドールの前を右折し道なりに下る。しばらく進むと鉄の橋の先に山がのっそりと不愛想に迎えてくれる。ここから頂上のシエーラ・リゴンデまでは標高差400m近く登りが続く。歩いても歩いても休憩するカフェ/バルがまったく出てこない。数軒の家の点在する小集落は散発的に登場するが、巡礼者をわずかでも受け入れる類のものではない。仕方がなく腰が掛けられそうな叢でバックパックの中からミネラルウォーターとさくらんぼを取り出す。さくらんぼの甘酸っぱい香りと味は、落ち込み気味の気分を一新してくれた。
  ポルトマリンを出発して約8kmのゴンサールでやっと朝飯にありつけた。150m程度しか登っていないのにすっかり疲れた。しかし、さらに200m以上は頑張らねばならないので、ここでぐずぐず油を売っているわけにいかない。腹に一通り詰め込んだらトイレで出すものを出して離れる。地図を信じる限り基本的には登っているのだろうが、実感としては切れ目なしにアップダウンを繰り返す。もっとも、身体に対するダメージからいうと下りよりはむしろ登りが望ましい。痛めた足の指に負担がかからず、踵が圧力に耐えるだけでよいからである。
  当たり前であるが頂上に辿り着けば、今度は爪先に激痛の走る下りが始まる。ギブアップ寸前となったオスピタル・デル・オルビゴの状況が久しぶりに蘇る。ただし、あの時は足の指よりも腰・股関節が重症といえる。現在、後者はサポーターで締め上げた効果があり、ほとんど活動に悪い影響を及ぼしてはいない。このところ最も苦しい箇所は、10本の指すべての肉刺と3本の剥がれかかった爪である。ポルトマリンの薬局で「It’s impossible」と見放された症状は、悪化の恐れはあっても快方の気配などまったくない。
  素人でなしうる対策はたかが知れている。肉刺は潰して中の水分を絞り、ワセリン塗ってテープを巻く。剥がれそうな爪も、テープで動かないよう押さえる。その後、5本指のアンダーソックスの上に厚手のトレッキング用ソックスを穿く。靴の装着も忘れてはならない。紐で引き上げた踵を地面に打ち付け、できるだけ爪先部分にゆとりを作る。最後は、歩き方としてポールで上手く支えて体重をかけ過ぎない。ざっとこんなところであろうか。ともあれ、残念ながらどれをとっても間接的で回りくどい小手先の取り組みばかりである。
  登山やロングトレイルでは常識なのかもしれないが、経験や能力を無視するオーバーペースは禁物である。1km足らずしか進んでいないのにカストロマイオールで休憩をとる羽目となった。足の指の痛みがどうにも耐えられないと同時に、喉の渇きに加えて少し肌寒さが感じられたのである。ポルトマリンの運に見放された晩餐の副作用でパワーが発揮できないと考えられないではない。睡眠は十分満ち足りている。足の指の具合が特段悪化した節もない。それにしてもカフェ/バル・オ・カストロは、すごい混雑ぶりであった。
  課外授業か青少年イベントの途中で立ち寄った中学か高校の生徒が目立つ。引率者が気を効かせてテーブルや椅子は使わせていないが、トイレや巡礼向けスタンプ台はすべて彼らの支配下にあった。この連中もひょっとすると、サリアから歩いて来たのだろうか。それともすぐ近くに観光バスを待たせてあるのか。遥か以前に遡って青少年であった先輩世代も、現役世代と張り合って旅行者ならではの雰囲気をあたり一面に振り撒く。巡礼者たちに特有の気遣いというか慎み深さは、ここの新旧いずれの世代も持ち合わせていない。
  約5km我慢を重ねてシエーラ・リゴンデの頂に着き、ついに恐れていた足の指の痛みの敵である下りが始まる。ガイドブックの解説では11kmは脂汗をかかねばならない。靴の装着を改めて整えはしたが、歩き始めの10分はなによりも辛い。じっと動かさず休んでいる状態に慣れると、動かしたとたん患部が擦れて猛烈に痛む。歯を食いしばり遮二無二進むにつれ、だんだん痛みに慣れて苦痛が和らぐ。したがって、長時間歩き続けて身体が疲労困憊状態となった場合でも、一方で休みたいのに歩行再開時の辛さが継続を促す。
  下りはずっと続くわけでなくパラス・デ・レイまで緩やかに登りと下りを繰り返す。リゴンデ川を渡ってしばらく行ったエイレーチェのマリジュスで昼食にした。ここも予想違わず賑わっていた。中はテーブルはもちろん立って食べるなど、もってのほかである。カウンターで注文するのも容易ではない。やっと外のテーブル席をさんざん粘って座った挙句に1つ確保し、ボカティージョとスーモ・デ・ナランハとカフェ・コン・レーチェを食べた。朝食の定番メニューで味気ないけれど、初めて感じる不躾さから一刻も早く離れたかった。
  ところどころで左手に畑らしき風景が広がるものの、ほとんどは頭の上を大きな木々が覆う登り降りが続く。肉体よりも神経が極度の単調ぶりに参る。疲れてはいないが、意識が朦朧となる。腰かけの替わりになりそうな石や切り株を探して座り、ポルトマリンのスーパーで買ったさくらんぼを頬張る。瑞々しくて甘いったらない。日本で売っているものでは到底及ばないほど味にメリハリが効いている。バナナは肉体の疲労回復に最高であるが、さくらんぼはむしろ精神の落ち込みを癒す。この新しい発見によって元気を取り戻した。
  5km進んだブレアで巡礼路は、国道N‐547号線と併行する。台数は多くないけれど自動車が、恐怖感を呼び起こすスピードで走り去る。最初は嫌で堪らなかった自動車の騒音にもだんだん慣れてきたと思った矢先、競技用なのか車椅子が物凄い勢いで緩やかな坂を登るのを目の当たりにする。きちんと舗装されて日本のような継ぎ目のない路は、車椅子にとって堪えられないだろう。そう羨ましくかつ感心して見送った直後、瓦礫や小川、幅20cmの丸田橋や木・石・鉄の階段はどう車椅子で克服するのか、と何度も首をひねった。
  車道に出て超大型キャリーカートを交代で引っ張ってゆっくり歩くイタリアの中年夫妻がいる。載せている荷物の量がちょっと信じがたい。これも車椅子の場合と同じく自動車道路として十分舗装された道路ならいざ知らず、悪路が圧倒的に多いカミーノ・デ・サンティアゴでは無謀な所為といわざるを得ない。しかし、周囲の野次馬たちの好奇の視線などものともしないで、カップルは引っ張り役と押し役を交互に務めつつ進む。遠い昔に夏の夜の野外公演で見惚れた、灰色に塗った裸体で絡み合う暗黒舞踏がふと脳裏に蘇った。
  もう1つ、なにがなんでも書き残さずにいられないことがらがある。中年の男性がサンタクロースみたいにビニール袋を提げ、巡礼路のあちらこちらに散らばる雑多なゴミを拾っている。行政の廃棄物処理担当が仕事として手掛けるわけではなさそうである。ただし、彼の袋に放り込むゴミは意外と少ない。12日間巡礼路を歩いて驚いたのは、日本の行楽地でお馴染みのポイ捨てがほとんどない点である。一箇所だけ2日目に大木の枝で隠された小川の淵の一角が10数個のビニール袋の包みで埋め尽されているのを発見した。
  拾うゴミが少ないからといって彼の行為を軽んじるつもりはない。環境美化のポイントは、汚点を一切許さないところにある。ほんの僅かな曇りが気のゆるみを生む。塵一つ落ちていない場所ではゴミを捨てられないのである。だが、ゴミの山はなんとか片づけようと思うが、さりげないポイ捨てはつい見逃してしまう。匠の成し遂げる見事な技は、細部にわたる丁寧な気配りの積み重ねから生まれる。その意味で楽しそうに通り過ぎる巡礼者の横で黙々とゴミを探す中年男性こそ、現代社会の失いつつある美徳を体現している。
  パラス・デ・レイと書かれた看板とモホンがあって着いたと喜んだものの、ぐるっと見回しても人口4,000人の街らしき人家はおろか店ひとつない。どうやら行政区としてはパラス・デ・レイであるが、周辺にへばりついた地域のような気がしてならない。反対側に観光バスが3台停車している。中学の高学年か高校生といった年頃の少年たちがたくさん往き来する。かまぼこ状の体育館が唐突に巨大な姿を覗かせる。開けっ放しの入口の扉の奥にずらっと並ぶシュラフとその周囲でじゃれ合う光景が自分の遠足の思い出と重なる。 
  横10m・縦5mほどの看板に「ラグビー・バスケットボール・テニスの練習に励め」と呼びかける文字が躍動する。さまざまなスポーツの練習設備を整えたところに、この地域としては発展の原動力を求めるのだろうか。パラス・デ・レイの人口は、3,743人の現在(2011年)までひたすら減少の一途を辿る。1940年の12,189人をピークに1950年10,044人、1960年8,674人、1970年6,496人、1981年6,323人、1991年4,812人、2000年4,330人である。
  体育館の真ん前にバンガロー風の洒落た造りの木造の建物が、50m四方の芝生の一方にお行儀よく延びる。片隅のパラソルの下に置かれた木製デッキでカップルが寝そべる。よちよち歩きの赤ん坊に手を差し伸べる若い父親が初々しい。芝生の向こうにどんと控える無骨な体育館は邪魔であるが、行脚の疲れを癒すラ・カバーニャの雰囲気に参ってしまった。中心街までは2km以上歩かなければ到着したことにならないけれど、ちょっとリゾート気分に浸るのも粋ではないかと考えて今宵の宿と決めた。果して結果は、吉か凶か。
  敷き詰められた芝生が臨める部屋は、予想に違わず素敵である。壁にかかるモンドリアン風の絵画も、リゾートタッチで気分を高揚させる。ガラス張りのシャワールームは、バスタブのないのがいささか残念とはいえ、汗まみれの身体を陽気に洗わせてくれる。早速、脱いだ下着だけを急いで洗い、部屋の隅の椅子に吊るして干す。さっぱりしたところで近所を散策しようと歩くが、スポーツクラブ色濃厚のシーンの連続で詰まらない。好き嫌いはともかく興味をそそるものが皆無である。明日の準備をするしかないと部屋に戻る。

巡礼13日目(パラス・デ・レイ⇒カスタニェーダ) 
  昨日の夕食後、早朝出発の旨をスタッフに告げたら「鍵は、受付カウンターの上に置いて行け」といわれたので、メイン棟に鍵を持って出向いたにもかかわらず外の扉が閉まっていて受付はおろか部屋の中に入ることが叶わない。私たちと同様の仕打ちを受けたアンコ型相撲取りを彷彿させる女性が、建物の周囲を何回もうろついて点検した挙句、絶叫の末にスタッフをどこかから引きずり出した。この種の人物と相対する羽目になったら、自分は戦わずして白旗を揚げるにちがいない。しかし、味方にすればこの上なく心強い。
  昨夜の夕食の忌々しさを苦々しく反芻しながら、朝食は満足できるものをとりたいと早足になった。ほどなく人家が少しづつ増えはじめ、いつの間にか街の中にいると気づく。遥か昔に王宮があったと伝えられるだけありパラス・デ・レイは、古色蒼然とした石畳が路一面を覆うなかなか趣のある街である。まだ当分は起きる時間にならないのか、猫が横切るだけで住人は寝静まっている。巡礼路を外れると運悪く迷子になりかねないため、黄色の矢印沿いにバル/カフェが存在するよう祈る。緊張の糸の切れる寸前で願いが叶った。
  長いカウンター前に並ぶ一列の止まり木椅子と、その後ろにちっぽけなテーブルが7~8つある、極めて慎ましやかではあるがどこか鄙びて格式を感じる店である。欧米系の巡礼者たちが数組支払いを済ませていた。定番のクロワッサンとスーモ・デ・ナランハとカフェ・コン・レーチェに加えて、カウンターの背後に備わるケースの中で飛び切り異彩を放っているケーキを頼んだ。食パン1斤は優にありそうなビスコッチョ(スペイン北部の名物パウンドケーキ)は、形容の褒め言葉に困ってしまうほど美味しいったらなかった。
  ケーキがあまりに立派で食べ切れないので、半分は間食用として持って行くことにした。質と量の両面で大満足しトイレでゆっくり用を足して出発する。しかも、請求された代金を聞いて驚いた。8.60ユーロである。それに比べて昨夜の不味い夕食は、24ユーロ。返す返すも腹立たしい。不愉快な昨夜の夕飯のをめぐるあれこれは忘れ、先ずは堪能した今日の朝飯を頭に浮かべて歩き出す。巡礼路は国道N‐547号線とほぼ並行して進む。途中、マト・カサノバとオ・コトで短い休憩をとる。間もなくルーゴ県が終わる。
  ア・コルーニャ県に入って最初の村ロブレイロをそのまま通り過ぎ、セコ川を渡って国道N‐547号線と併行に進むとフエロス川がある。そこに架かる4つのアーチからなる橋は、中世の趣をふんだんに漂わせて見事というしかない。さらに2kmほど木漏れ陽を浴びて歩き続ければ、石畳になったかと思う間もなく建物群が現れる。突然、左横の小道から揃いの赤いTシャツに身を固めた少年少女の大群が飛び出してきた。建物の一つが彼らの宿泊先だったのか。背中のナップザックには巡礼者の証である帆立て貝が吊るしてある。
  赤シャツ軍団の長蛇の列の迫力に気押され立ちすくんでいると、道に迷ったと勘違いして近所の主婦があちらが巡礼路と教えてくれた。このような親切に出会うとすぐ当地が好ましくなる。50~60m進んで突き当たった階段を登ると、自動車がたくさん行き来する道路に突き当たった。メリデに着いたと実感した。人口7,313人といえば結構な規模の都市にほかならない。洗練された出で立ちの通行人が次々とすれ違う。さてお目当ての店はどこにあるのだろうかと取り出した地図をめくりちょっと見上げてびっくりした。
  プルペリア・ガルナッチャは、あろうことか真ん前で私たちを待っていてくれた。早速、賑やかな客の声に誘われて開けっ放しの入口を潜る。日本の焼き鳥屋と同様、通行人が品定めできるよう調理のプロセスを披露する。足を一歩踏み入れた客は、あれが自分の前に並ぶのかと想像して唾を飲み込む。内部の造りとインテリアは、変わり映えのしない外装と著しく隔たっている。床・梁・階段の手摺・カウンター・テーブルと椅子がすべて焦げ茶色の木製である。スタッフの服装は男女とも、白のシャツと黒のスラックスで固めている。
  1階のカウンターとテーブルは地元の常連客と旅行者で満席だったので、2階の階段脇の下を覗けるテーブルで料理と社会観察を楽しむことにした。名物のプルポ・アラ・フェイラをなにはさておき注文する。これは料理といっても、茹でた蛸にパプリカとオリーブオイルと粗塩をかけただけである。でも、このシンプルを極めた一皿の美味しいことといったらない。オ・セブレイロのレストランで初めて味わった際の感動はもちろん忘れ難いが、世界に名声を轟かせるだけありメリデの逸品は、文字通り形容する言葉を失わせた。
  相当歩いたつもりではあるが街並みが一向に途切れない。人家や店舗だけでなく小規模の工場なども出て来る。ふとレオンの郊外を思い出す。自動車の往来も決して少なくない。統計を覗くと今世紀に入ってメリデの人口は、ほぼ横ばい状態を維持している。減少する一方の隣の街パラス・デ・レイと対照的といってよい。あくまで印象に過ぎないのであるが、現在をしっかり生きるように見えるメリデと比べると、隣のパラス・デ・レイはどことなく過去に縋っている。もっとも、巡礼する身としてはなぜか後者に魅力を覚える
  国道N‐547号線を右に眺めつつほぼ平らな路がひたすら真っすぐ延びる。意外に混み合っている。立ち止まるときは端に寄って後続者を通さないと渋滞する。バスを駐車させる場所がないからか、いわゆる観光客はまったく見かけない。すべてが巡礼者である。ただし、例によって荷物を宅配便で次の宿泊先へ送った連中が結構多い。彼らは身軽だから当然早足になる。からきし鍛えていない軟弱な身体で重いバックパックを背負い、トレッキング・ポールを支えに歩く私たちは、邪魔に違いない。そこで至る所で渋滞が生じる。
  ボエンテの手前で何度も挨拶を交わしたブラジルの男性とスペインの女性のカップルに出会う。女性の方が靴を脱いだ裸足の指にワセリンを塗り、激痛に歪んだ顔で包帯を一生懸命巻こうとしている。男性はといえば傍らで茫然と立ち尽くすばかりである。それでも、私たちが心配そうに見守るのを知るや否や、二人ともにこやかに「ブエン・カミーノ」と声をかける。ここが俄か巡礼者と本物の違うところと感心する。どんな経緯で二人が同道するようになったのかはわからないが、最後まで無事に仲良く歩き切ってくれることを祈って別れた。
  ボエンテ川が下りの底だったのか、渡ったとたん登りに勾配が急変する。とてもきつい。それまで気にならなかった足の指がどんどん痛みを増す。下りに比べて登りは楽だったはずが、セコンドにタオルを投げて欲しいくらい辛い。大きな瓦礫があちらこちらで前を塞ぐため、爪先に力を入れて踏ん張る必要が生まれる。とくにトレッキングポールを突く箇所が確保できないと、バックパック+体重の負荷を全部足で支えねばならない。不安定な状況で身体の向きと軸をぶれさせないよう注意するのも、73歳の爺には難儀な話である。
  いよいよ限界に近づきつつあるのが、精神を遥かに越えた本能レベルで感じられる。そうかといって、他に助けなど求めようのない事実も了解済である。ここで野たれ死ぬしかないと腹をくくったとき、待っていたかの如く頭の中で歌声が響き始めた。今回はジョーン・バエズの“We shall overcome” である。しかし、口ずさんでいるうちに変だと感じた。最後のフレーズが「Oh deep in my heart.I do believe. We shall overcome someday」となっている。これでは駄目だ。わが勝利は、いつかsomedayではなく、今nowあるいは今日todayとならなくてはいけない。
  足元やバランスに集中したため、周囲を見回すゆとりを失っていた。これはいかんと気を持ち直して関心を内から外へ切り替えた。鳥のさえずりや虫の鳴き声に耳を澄ますと、頭の中の歌声が嘘のように消えてしまった。路の両側と頭上を覆う黒々と光る木々は、いつの間にやら栗や樫からユーカリや松に変わっていた。ユーカリの白い幹は、心を和ませてくれる。日本で見慣れたものよりは太くて背の高い松も、濃い緑が邪念の払拭効果があるのだろう、気分を清々しくする。万事、内に籠ってばかりでは駄目とつくづく思い知る。
  今夜の宿はアルスーアにしたかったが、この体調を考えて到底無理と結論づける。その手前はリバディソであるが、それすら正直なところ自信がない。情けない自分を責めたり憐れんだりしながら、いつしかアスファルト舗装の路を歩く。左手に突然、一般家庭の住宅を彷彿させる建物がポツンと登場した。やり過ごそうとする気を殺ぐラ・カジェハの表札が目に飛び込む。
  巡礼宿のオーナーないしマネジャーにしては洗練された女性が案内してくれた。料金は、シャワー・トイレ付きのツインベッドルームで35ユーロ、洗濯4ユーロの合計39ユーロという。至極円満な交渉成立で即座に料金を支払った。なにはさておき洗濯を頼み、休養第一と2階の部屋で一休みする。裏は牧場である。牛がのんびりまどろんでいる。夕飯までの間、近所を散策しようと中庭に降りると、物干し台に私たちの洗濯物がきちんと掛けてある。
  5時過ぎというのに外は、真昼間の明るさを維持し続けている。けれども、昼食がうわの空でどこに入ったかわからない状態であったから、お腹と背中がくっつきそうな猛烈な空腹でじっとしていられない。喉も渇いて、ひりひりする。身体と精神の全体が我慢の限界を越えてしまった。とはいえ、カフェ/バルは、サンティアゴがあるのみ。選択の余地がない。カカベロスの経験が悪夢のように蘇る。再び調理なしで保存食まがいの残飯を出されるのではないか。それにしてはオープンテラスの満席という光景が腑に落ちない。
  内部は、予想以上に狭かった。5mほどのカウンターとテーブル3つが並ぶだけである。客は、カウンターの端、つまり入口に1名とテーブルで食べる2名がいた。とりあえず、空いている席に座って壁のメニューをざった眺める。当然、スペイン語ばかりで意味が理解できない。そもそも日本にいる時でさえ、料理の品書きを読んだところで内容などチンプンカンプンである。想像のついたミックスサラダと、メニューというタイトルの料理(定食と推察)とトルティージャを選び、飲み物としては変わり映えがしないけれどビールと赤ワインを付け加えた。
  幸いにも出された料理は、8割かた諦めていたこちらの思惑が見事に外れた。スペアリブの肉とソースが抜群である。すっかり満足してデザートとティーも追加注文した。ガリシア名物のタルタ・デ・サティアゴは、絶妙なる褒め言葉がぴったりの美味であった。ただし、減点のアクシデントもないでもない。ワインがひどかった。これは不合格であると×印を身振りで示すと、怪訝な表情で主人が試し飲みをした。その結果、こちらの言い分が正しいと認めると、新しいビンを開けて私に前に置いた。帰る際、満足した旨を告げ握手し別れる。

巡礼14日目(カスタニェーダ⇒サンタ・イレーネ) 
  6時30分に出発。階下の受付の机に鍵を置いて出る。標高は400mとさほど高くはないのに、早朝のため冷気が首筋を撫でて身震いする。明後日はサンティアゴ・デ・コンポステーラに着くと自分に言い聞かせ、バックパックの位置を確認してトレッキングポールを握り直す。濃い霧がかかってうまく先を見通せない。しかし、路はきちんと舗装されているので、足元に気を配る必要は皆無といえる。風の一吹きによって視界が開け、左側に広がる牧草の緑色が眩しい。右側にはポツンポツンと農家の作業小屋が音もなく建ち並ぶ。
  突然、前方から怒号を思わせるエンジン音と甲高い犬の鳴き声が聞こえて来た。曲がり角の手前で安全第一とばかり立ち止まってやり過ごそうとすると、巨象と見紛うばかりのトラクターが2匹の大型犬を引き連れて登場する。仕事に出掛けるご主人と従順な愛犬のコンビといった様子である。見上げると窓から厳つい男性が手を振っている。こちらも、ぎこちなくポールを翳して応える。予期せぬ出会いに心がなんとなく和む。いったい、このあたりではどんな作物が手掛けるのであろうか。ひょっとしたら耕うんではなく収穫か。
  前日に泊まる予定であったリバディソで朝食をとる。あまり進んでいないがアルスーアで再度休憩とする。やや精神的に疲れを感じて気晴らしが欲しかったのである。樫の林を淡々と歩くうちに奇妙な紙がいっぱい貼ってある塀を見かける。「貴方は、宗教を信じるか」を筆頭に短い質問が、ずらずら書き連ねてある。簡潔な表現の英語で50近くの文言を作るとなると、(スペインでない)外国の巡礼者の仕業である可能性が高い。立ち止まって珍しそうに覗き込む人が多いけれど、初めから終わりまで熱心にスマホで撮る人もいる。
  サンティアゴ・デ・コンポステーラをキリスト教徒として目指すのであれば、ここで問われている問いに対する答えを考えつつ歩くべきなのかもしれない。巡礼という行為はキリスト教に限られるわけでないので、他宗教の信徒も道行の過程で思考するのが礼儀ともいえる。さて、無宗教の私としては、どのように対応したらよいのだろうか。あらゆる行いは、なんらかの目的を前提し、目的達成のための手段を選び、状況に合ったタイミングで実行する、という一連の意思決定の流れからなる。久しぶりに頭が刺激を与えられた。
  ともあれ、私としては出発点となる目的がはっきりしないため、検証すべき意思決定過程のとらえどころがなくて困る。犯罪捜査でいえば容疑者の動機が定まらないのである。警察とすると裁判に耐えられるポイントの欠如から、この状態では検察に立件してもらえない可能性が高い。聖地巡礼に再び話を戻すならば“なんとなく来てしまった”では、聖ヤコブに失礼である、とキリスト教徒に叱られるかもしれない。レジャー産業振興を期する行政や業者にとっても、集客の勘所を探る点でまったく参考にならないのも残念だろう。
  ぎりぎりの動機を無理矢理述べるとしたら、妻の腎臓がんの完治を願った神頼みである。なんの役に立つとも思えないけれど、無為に座しているのがやりきれない。大手術に続く薬物治療で妻は、いろいろ苦労が多いはずである。仕事上のストレスも加わって大変に違いない。一方、こちらは隠居の身であり余った時間をどう過ごすのかで悩んでいる。両者のチグハグを少しでも埋めることも、今回の巡礼を企てた遠因といって構わない。3週間の同道を通して減衰気味のコミュニケーションを挽回させようとする窮余の策である。
  取り留めなく堂々巡りの思考に浸っていると、急に後ろで賑やかな話し声や笑いが喧しくなる。メリデで遭遇した赤シャツ軍団である。ただでさえ若くて元気一杯で溌剌とする上に、荷物をバスで別途運んでもらうから、楽々と私たちに追いつき追い越して行く。ア・カルサダで一服して彼らに負けないよう先を目指す。しばらく続くなだらかな登りにうんざりしかかった時、今まで通過したいくつかよりは多少大きい集落に着いた。クレデンシャルのスタンプによれば、サルセダのメソン・ア・エスキパなるカフェ/バルである。
  結論の出るはずのない考え事に没頭したため、何を食べ何を飲んだのかまったく覚えがない。ただ店を出て少し行った場所で驚いた光景は、もちろん忘れようもなくはっきり記憶する。さしたる規模ではなかったがカフェ/バルが、例の赤シャツ軍団で文字通り埋め尽くされていたのである。庭に出されたテーブルと椅子は当然満杯であるが、出入りはあるだろうに人の群れで入口がわからない。立錐の余地がないとはこの状態を示す、とまさしく肌で直に実感した。と同時に存在するだけであっても数の醸し出す迫力を恐れた。
  なんらかの影響力によって彼らが感情の昂ぶりから同一方向を目指したら、論理や分析を駆使して説得しても軌道修正は相当難しいのではないだろうか。個人の理性の正当性に依拠する民主主義が大衆迎合主義いわゆるポピュリズムに敵わない。そのような不安が反射的に頭をかすめた。しかし、小難しい議論は後回しにした。当面は、赤シャツ軍団の悪影響を避ける必要がある。彼らが後続の宿泊先をすべて占拠した挙句、私たちが宿なしで野宿する事態に陥っては困る。主要なアルベルゲは、事前予約されているかもしれない。
  杞憂かもしれない胸騒ぎに押されて昼食はそこそこに済ませ、今夜の宿泊地に予定するオ・ペドロウソを目指して歩き始める。相変わらず国道N‐547号線を横目に休まず前へ前へと進むけれど、この辺りからずっと巡礼路と国道は、撚り合わせた糸のようにクロスするので、神風運転の自動車の前を横切るのが怖い。もっとも、横断後にユーカリや松の林を木漏れ陽に晒されて歩くと、浮世の憂さというか煩わしい考え事は嘘のように拭われる。サンタ・イレーネ峠に向けてさほど急ではないが巡礼路はひたすら登り続ける。
  いい加減退屈で飽き飽きした頃、やっと頂上らしき地点に到着した。とはいえ、たんなる巡礼路の一番高い場所であって、真のサンタ・イレーネ峠の頂上はもっと東にある。1軒のカフェ/バルと2軒のオスタルが寂し気に建つ。公営と私営のアルベルゲが、左に折れた小道の先にあるらしい。看板が誘っている。裏に回ってみるとデッキチェアーや洗濯物干し台が並ぶ。ほのぼのとした温もりを感じる。どうしようか、もう少し検討するか、それともここに決めるか、と短時間ではあれ迷った。3回のノックに応えて若い女性スタッフが扉を開けてくれた。
  一応、下見をさせてもらうと、1階にベッド8つ、2階に4つとこじんまりしたアルベルゲである。ベッドは1段なので安心して眠れる。1階はすでに満杯だから、私たちは2階を独占できる。これを断る手はなかろう、とまったく躊躇なくOKする。しかし、現実はそんなに甘くなかった。遅くなってフランスの中年女性が割り込んできた。旅に慣れた雰囲気を漂わせる彼女は、なすべきことを済ませ、床に就くや否や大鼾で寝入った。まったく挨拶もなしであっけにとられる。いささか拍子抜けしてしまった。こちらに問題があるのかと、逆に反省する体たらくである。
  夕食はアルベルゲでとるかと誘われたが、二人でゆっくりしようと断って近くのバルに行く。解放気分に浮かれて入ると、大変な事件が起こっていた。昼間、挨拶を交わしたブラジル・スペインのカップルが、カウンターに肘をつき頭を垂れて意気消沈の表情である。治療した彼女の足の容体が悪化の一途らしい。ギブアップしてサンティアゴ・デ・コンポステーラまでタクシーを頼んだところという。あの苦労の連続の結末が残り50km足らずの地点で断念となるのか。彼女は身もだえして泣いていた。かける言葉がなかった。
  来るな、来るなと胸の奥で叫んでいたが、恨めしいタクシーがやっぱり姿を現わす。大聖堂の昼ミサで再会を約束し、悄然と座席に収まる二人を見送った。頭の中が空っぽになって、食欲はどこかへ吹き飛んだ。もっとも、災厄は終わっていなかった。その後の事態の展開は、文字通り私たちを奈落の底へ突き落した。バルの女性スタッフは、一切調理なしで完成品のみ扱い、しかもほとんど売ってしまった、と冷たく語る。得体の知れない菓子パンとカフェ・コン・レーチェを仕方なく頼む。とぼとぼ戻って宿の扉を開けると、チキンのクリームシチューの香りが胃袋を刺激する。
  遅れて遅着したフランス女性の笑い声が神経を逆なでして止まない。翌日の準備をした後、起きていても特にすることがないので、早くシュラフに潜って眠ろうとするが、波乱万丈の一日を思い出して寝つかれない。トイレに時々行きたくなるけれど、無灯のため階段を降りるのが怖い。とりわけ最後の一段を踏み出す着地点が、宿泊者の私物がゴチャゴチャ転がっていて厄介である。下手をすると足首を挫きかねないし、迷惑千万の騒音を生じるかもしれない。やっと扉に辿り着き安心するが、戻る際の苦労を思ってぞっとする。



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