2017年7月25日
途 上(トジャウ)(5) 小堀杏奴
若い頃はなんでも完全でありたいと言ふ変な要求があつて、一度何かの事からちらかすとすつかり拭掃除が出来る迄、ちらかり放題ちらかしておくよりないと言つた投げやりな気持になり、ひどい状態の侭ほつておいた。画を勉強するとよく解るのだが、日本画はともかく洋画の場合、風景を描くとして、一つの構図が決定すると、大づかみに全体の調子を見ながら描き進めて行つて、或る一部分だけを詳細に描き込み、他の部分はその侭手をつけずにほうつて置くと言ふ事が無い。それ故未完成なりに何時筆をとめても、全体の調和はとれてゐて、何を描かうと、してゐるかと言ふ意図は明瞭になつてゐる訳である。小説などはさう言ふ訳にいかないだらうが、少くとも今の私は与へられた境遇のもとに、なすべき事を完全に成し遂げ、少くとも家事の上では途中で外出する為に他の人に用事を引継いで貰ふとしても、仕残した用事と言ふものは無く、次の用事に何時でも取りかかれる用意がちやんと整つてゐる訳である。仕事にしても家事その他にしても、人間のする事でこれでいゝ、これで完全だと考へられる事は絶対有り得ないと思ふやうになつた私は、現在なすべき事を忠実に成し遂げつゝある段階に於いて何時でも喜んで死を迎へる心境になるよりないと考へるやうになつた。その意味でなら私は、かうしてペンを持つてゐる時でも、洗濯の最中でも、孫のおもりをしてゐる時でも、御手洗ひの掃除中でも、与へられた仕事を忠実に果してゐると言ふ点で全く変らぬ気持であり、今ではさう考へる事によつてほんの少し安心感が得られるやうに思はれるのである。