2017年7月28日
山旅のたのしさ(3) 熊沢復六
一つは、野生の鹿を見たことである。陸地測量部の五万分の一の図幅によると、尾鷲側から、大台ケ原へ向って、大杉谷の上方四、五百メートルの稜線ちかくを、ほそぼそとした山道が、深い原生林のなかを通じている。登山者は、大杉谷の谷底を行くので、このあたりは、一日あるいても、人影を見ることはまずあるまい。途中、沖見峠といって、ここだけがわずかにひらけて、脚下に尾鷲湾と太平洋を見わたすことができる。私が二頭の鹿を見たのは、この峠から大台ケ原よりに、一キロばかり行った、原生林のなかであった。鹿もこちらに気がついたのであろう、すぐに密林のなかに姿を消した。それからしばらくはかさかさと、落葉をふむような音が聞えていたが、やがて三声四声、笛を吹くような澄んだ音色が、次第に遠ざかっていった。