2017年8月1日
スペイン巡礼の旅⑦ 第6章 感動のゴールイン 影山喜一
巡礼15日目(サンタ・イレーネ⇒サンティアゴ・デ・コンポステーラ)
5時30分に起床。隣のベッドは、とっくにもぬけの殻である。あの凄まじい鼾の主はどんな女性か知りたかったが、こちらの思惑に気づいてかいち早く姿を消していた。階下の泊り客の多くはまだ寝ていたので、抜き足差し足忍び足で最大限の注意を怠らず外へ出た。昨夜の最悪の夕食のせいで身体にからっきし力が入らない。できるだけ急いで朝食にありつけるバル/カフェを見付けたい。トレッキングポールを頼りにアルベルゲを離れふらふら歩いて行くと、渡らねば巡礼路に入れない幅広の舗装道路を猛スピードで飛ばす自動車がある。
南欧と一括りにしてよいか否かわからないが、スペイン・フランス・イタリアの運転者は、歩行者の安全を尊重しないように感じる。路端に横断したがる人がいても、100%が減速しないのではないか。歩道のない場合、窪みに身体を捻じ込むかボルダリングよろしく壁にへばりつかないと、弾き飛ばされて一巻の終わりになりかねない。F1レースさながらにアクロバティックな腕前を披露してくれる。何回となく恐ろしい経験をしているためどれほど遠くにいても、いったん自動車の影が目に入ったら辛抱強く通り過ぎるのを待つ。
公営アルベルゲの横を曲がって、樫だろうか背の高い木々がアーケードのように繁る森の中を進む。暴風に襲われたのか薙ぎ倒された大木がごろごろ転がる。誰一人、歩いてはいない。ちょっと気味が悪い。どうにも空腹に耐えられなくなったので、バナナをミネラルウォーターで流し込む。2箇所うらぶれた休憩所があったけれど、食欲が失せる雰囲気でもあって素通りした。
オ・ルアやオ・ピノといった小さな集落を突っ切って、結構たくさんの宿や食堂のあるオ・ペドロウソに着いた。この街もそうであるが、途中で紫陽花を至る所で見かけるようになり、いつの間にか日本へ戻ってぶらぶら散歩する自分をぼんやりと夢見る。紫陽花は、日本が原産地と信じていたが、ひょっとするとヨーロッパか。いずれにせよ、上品で慎ましやかな佇まいは、日本を出発して以来、ついぞ感じなかった感情で懐かしさに胸が詰まった。空腹を脱すると現金なもので希望が湧いてくる。元気を再び身体中に取り戻して歩き出す。
国道N‐547号線のトンネルを潜って進むと、ひどく場違いに飛行機が上空を徘徊して消える。もしかして近くに飛行場があるのかもしれない。早速、ガイドブックを紐解くと、7~8km先のラバコージャにサンティアゴ・デ・コンポステーラ空港がある。中心街からわずか20kmといえば、タクシーに乗れば15分で着くだろう。もちろん観光客相手のホテルも集まっているに違いない。そのような場所を巡礼者が通過するのか。いささか失望の念を禁じ得ない。スペインとしては人集めのため、切羽詰まった挙句の苦渋の決断か。
ラバコージャに立ち寄るのは避けて、手前のサン・パヨのカーサ・ポルタ・サンティアゴで一服する。あまり長居をしないでそのまま歩き始めると、今度は国道N‐634aのトンネルにぶつかった。ラバコージャには予想通りリゾートっぽいホテルがいくつか軒を連ねている。しかし、巡礼者に限らず一般の人たちを呼び込むカフェ/バルは見当たらない。近くの原っぱで乗馬のイベントが開催され、家族連れを含む大勢の老若男女で賑わっている。脇を並行して走る巡礼路も、ひっきりなしに出入りする自動車で危険極まりない。
しばらく離れていた一般市民の日常生活を眺め、ホームシックに罹るどころか反発を感じながら進む。ほどなくユーカリや松の繁茂する林の中を木漏れ陽に晒され、巡礼らしい足取りに立ち返って自分を奪還した気分で満足する。再び剝きだしの舗装路に入ると、右手にテレビの塔が突如出現する。放送局らしきオフィスもある。ゴールが近づくにつれて現代風の光景と鉢合わせし、いつしか身体に染み付いた巡礼のペースが乱される。精神面でも落ち着かない。なだらかだった登りが少しづつ急角度に変わる。緊張に心身が引き締まる。
標識の示すまま忍耐強くどんどん歩き続けると、路が広く舗装されて洒落た家々が並ぶ村にぶつかる。たった1軒しかないバル/カフェのテーブルでガイドブックを調べたところ、サンティアゴ・デ・コンポステーラまで後わずかのサン・マルコス村である。ブラジルの少年が、故郷のお母さんに電話をしている。店のスタッフに対して彼は、もっぱらポルトガル語で話すが、時々通じなくて四苦八苦する。身振り手振りで必死にわからせようとする様が面白い。東北や九州の方言程度の違いと考えていたが、スペイン語とポルトガル語の相違はもっとずっと大きそうである。
フランス語とイタリア語のついても、おそらく同様の指摘ができるに違いない。想像力を働かせれば相互に理解し合える部分は多いが、それには忍耐が必要であるし誤解してしまう可能性もある。共通言語をもつと人類が神を蔑ろにする、というバベルの塔をめぐる聖書の戒めは示唆に富む。異なる言語同士でコミュニケーションを成り立たせようとするが故にある種の謙虚さは生まれる。その謙虚さこそが互いに仲良くやっていくモチベーションを育むのかもしれない。語学が苦手といって卑下しなくてよいとちょっぴり自信が湧いてくる。
また歩き始めると10mぐらい先に合宿所のような建物があり、高校生らしき男女が敷地内でデッキチェアーに横たわっている。周囲も彼らの仲間たちで大賑わいである。突き当たって左に折れ小さな丘をほんの少し登れば、ヨハネ・パウロ2世の訪問の記念モニュメントが立つ。いささかモダン過ぎるのではないか、と美術鑑賞の視点からいうと感じる。開明的で俗世界における人気もひと際高かった人物としては、巡礼者向きの重厚で古色蒼然たる作品は不似合いなのかもしれない。それはともかく、きちんと挨拶はしてきた。
今度はゆっくり下りの路に入って白い無骨な建物の林立する広場と出会う。かの有名な公営アルベルゲに違いない。チラッと眺めただけで改めて拒絶反応が生じる。やや左寄りにぐるっと迂回して緩やかな登りを恐々辿ると、行く手を自信たっぷり指さす二人の巡礼者の像が聳える。指の示す方向へ絶対逃すものかと目をやれば、もちろん見えるのは、何度となく夢に登場したサンテイアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂である。遂にモンテ・ゴソの歓喜の丘で聖ヤコブの祀られる巡礼のゴールをはっきり確認できて感激する。
今日はかなり余裕をもってしっかり踏みしめて進んで来たためだろうか、“歓喜の丘”に立った時も爆発的な嬉しさは、正直なところ湧かなかった。真のゴールが明日であるためかもしれない。だからといって喜びがないはずは当然なく、2週間に及ぶ艱難辛苦を思い出し安堵する。ことここに至ってギブアップはありえないと確信するが、半端でない足の痛みが突き上げる度に早く終われと念じる。ゴールインしても痛みは消えものではないけれど、テープを切るまでは想定外の事故への不安はある。強制入院も十分考えられる。
広く流布する証言によれば、多くの巡礼者は,公称の最大収容人員800名のモンテ・ゴソのアルベルゲに泊まり、翌朝一番乗りを期しサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう。赤シャツ軍団も恐らく例外ではないであろう。大津波そこのけの巡礼者の行進に私たちは対抗する自信などあるはずがない。そこで、モンテ・ゴソよりも目的地に近い宿を出発点としてできるだけ上位でゴールしようと考えた。手前勝手の観測を述べれば、足の速い赤シャツ軍団は、モンテ・ゴソに多分今晩宿泊する、いや既に辿り着いているかもしれない。
いよいよ残りは、5kmを切った。高速道路AP‐9号線の上を渡って中心街の取っ掛かりにやっと到達する。サン・ラザロを過ぎたあたりで路は、アスファルトではなく重厚なコンクリートの舗装となる。4mほどの歩道まで両側に走っている。大型観光バスや貨物車や小型の配達用バンが、両方向へひっきりなしに飛ばす。典型的な大規模都市の外縁部の光景である。高層のオフィスビルやマンションが四方に建ち並ぶ交差点で今後の方針を考える。2km弱で中心街に入ってしまう。このまま先へ進むか、あるいは宿を探すか。
既に答えは、決まっている。一応、駄目押しで考えてみたかっただけである。すぐ前の運動場で子供たちがサッカーに興じる。脇の遊歩道を自転車でよろよろ走るというよりはふらつくチビもいる。その後ろを母親がなにか叫びながら追いかける。自然に顔が綻ぶホームドラマのワンシーンである。遊歩道の端は、すり鉢の底へ向かうように巨大な建物目がけて下る。その1階に今宵の宿の候補は存在した。看板を大っぴらに掲げてはいない。短パンの若い男女がひっきりなしに顔を出すので、たぶんアルベルゲだろうと当たりをつけたのである。
道路の反対側にもビルの1階で同様の施設が営まれていた。そちらよりはアルベルゲ・アクアリオがましに見える。大通りに面していては自由な格好で動き回れない。いちいち着替えて外に出るのでは、リラックスできずに気づまりではないか。そもそも全然泊り客やスタッフの姿がないのも不自然に感じる。最後の夜はオスタルでなくアルベルゲに泊まるつもりでいた。心身相俟って巡礼を無事終えたといえる状態で事務所に出頭したかった。したがって、ワイルドな点は構いはしないが、それも程度の問題と考えてはいる。
やや狭い入口を潜ってびっくりする。受付の若い女性スタッフの鼻にピアスがぶら下がり、口には煙をもくもく燻らすタバコが咥えられている。彼女の向かいで低い椅子に座って長い足を伸ばす長髪の青年も面白い。お似合いのコンビである。どちらも、日本のテレビ会社が喜んでバラエティー番組に招くだろう。くだんの彼女は、まったく無表情に二人分の宿泊料20ユーロを受け取り、クレデンシャルの空欄にストンとスタンプを捺してくれる。とどこから出てきたか太った少女がベッドの場所を教え、トイレ・シャワーの案内と注意事項について説明する。
入口に隣接して8畳ほどの団欒スペースが設置されている。中央の通路を挟んで一方に3組のテーブルと椅子、もう一方に簡単な掲示板とPCが2台備わる。自炊の態勢があるらしく、食事中のグループもいた。奥の就寝スペースは、3つのゾーンの中央に2段ベッド2つと両壁にくっついてベッド1つづつがある。6×3の計18名の宿泊が可能となる。しかし、パンフレットには60名収容と書いてあるので、上の階か隣のどこかに40名程の施設が存在するに違いない。私営と称してはいるが、野蛮な臭いに満ちている。
通路の突き当りの左側にトイレとシャワーがある。シャワーは、3つ並ぶ。夕方にトイレを使おうと偶然入ったら、中年の女性2名がシャワーで騒がしい。同じシャワーを一緒に使って開けっ広げにキャーキャー叫ぶ。こちらは目のやり場に困ったが、彼女たちはまったく眼中にない。大らかというか羞恥心に欠けるのか、日本人の慎ましやかさが馬鹿々々しい。ともあれ、ベッドで横たわった時はもとより、団欒スペースでも誰もが静かである。外見と裏腹にとてもマナーが素晴らしい。人間を見てくれで判断すべきでないと改めて痛感する。
いかなる連中がいるのか聞き耳を立てると、宿泊者の多くは巡礼を終えたみたいである。たしかに明日はゴールというにしては、なんとなく皆緩み切った印象が色濃い。そのまま帰るなり次の行動に移らないのか。ここに留まる理由は何か。問い質したらよかったかもしれないが、なんとなく面倒で言いそびれてしまった。私たちは、中央の階段ベッドの下2つをあてがわれた。初めのうちは独占できてラッキーと喜んだものの、夜になって南米系の老男性と若い欧米系女性2名が加わる。遅かったので女性たちは、顔を拝んでいない。
腹が減っては戦ができぬ。戦をする気はないが、空腹では眠れもしない。ましてや明朝の早立ちを考えれば、前の晩の食事は充実させておきたい。あまり客を大勢呼ぼうとする街ではなさそうだから、グルメ対象のレストランなどは恐らくないであろう。しかし、地元住民を相手にする店ぐらいはある、と楽観していたのがどうやら甘かった。日曜日も影響してか飲食に限らず、あらゆる店がぴったり扉を閉じている。15~16分闇雲に訪ね回るけれど、街中がすべて拒絶する雰囲気である。掛け値なしにタイムアウト寸前となった。
バル・ラッセムに辛うじて灯りがついていた。カフェではない。正真正銘の酒飲みを相手とする店である。豊満な女主人を相手に巨漢が一人話し込む。常連らしく客が来たと知ると、そそくさと切り上げて帰った。奥にはテーブルも並ぶので、食事も一応できるようにみえる。それでもと念のために訊いたところ、日曜日だから無理とやはり断られた。他に行く当てもないので、腹の足しになるものを頼む。落胆した様子に同情したのか、山盛りの生ハムとパンが出た。幸いどちらも例えようのないほど美味しかった。淋しいイブだが一応締めくくれた。
巡礼最終日前半(サンティアゴ・デ・コンポステーラ⇒キンターナ広場)
いつもと変わらず5時30分に起床。トイレ・洗顔・歯磨きを至極順調に済ませて、必要不可欠なもの以外をバックパックに詰める。靴とトレッキングポールは、ベッド脇に立て掛けてある。着替えを終えれば即出発できる。上下の下着は装着済だから、次は高機能タイツの番になる。そこで異変に気付いた。どこを探しても一向に見当たらない。昨夜寝る前に脱いで吊るしたベッドの柵は、何度見ても一番上に羽織るビニール製パーカーがぶら下がるだけである。狂ったようにあちらこちらを引っ掻き回すが無駄骨に終わった。
バックパックの中身をすべてぶちまけるものの、必死の祈りも空しく無情にもなにも出てこない。腰と股関節はサポーターで締め上げるからよいが、足首や膝や大腿部については高機能タイツが欲しい。下半身全体の安全保障といった位置づけになるだろう。頭を抱えて途方に暮れる中でふと思い出す。ひょっとすると丸めて畳んだシュラフと一緒に包んだかもしれない。慌ててカバーから引っ張り出して広げるとあった。道理で押し込む時に大変だったと苦笑する。よりにもよって最終日が洒落にもならないドタバタで始まった。
遅くとも6時に発てるとの予想は外れ、気が付けば6時30分をとっくに過ぎる。どんなに急いでも私たちが到着する頃となれば、巡礼者の受付事務所も長蛇の列をなすに違いない。自分の撒いた種ときっぱり諦めて、通常のペースを守って歩こうと思う。右手の高台から大型の観光バスが続々降りて来る。ひょっとするターミナルがあるのかもしれない。まだ出勤時間にならないのかマイカーはほとんど見掛けないけれど、遠方から着く大型貨物に混じって小口の配達車両が危ない運転をする。日本と変わらない朝の光景である。
歩道の所々に埋め込まれた帆立て貝の標識を頼ってひたすら進む。当初、恐れたほどゴールを目指す巡礼者の数は多くない。いささかがっかりする。やはりオフシーズンの故なのであろうか。ボナバル公園を横目に見ながら休まず行くと、いわゆる旧市街の入口となるカミーノ門がある。門を意気込んでくぐったとたん、緊張の糸が切れ身体の力が抜ける。頭の中が真っ白になる。しばらく後、体勢を立て直していざとばかり帆立て貝の標識を探すが、なんという意地悪を天はなさるのか一向に見つからない。誰一人通る人もない。
とにかく門から遠ざかる方角へ足を向ける。大学と思われる建築がたくさん現れたので、ガイドブックで探すがさっぱり要領を得ない。すると自信ありげに颯爽と闊歩する大柄の黒い肌の女子学生を見付ける。幸いにもバックパックを背負っている。彼女の後を追いかけると決めた。しかし、速いといったらない。ちょっと脇見をするとすぐ見失ってしまう。大聖堂の尖塔を目印に動こうと奮闘しても、周囲に高い建物が多く壺の底であがく蛸である。早朝であり極端に人通りが少なく、偶然すれ違っても声をかけにくい。
オブラドイロ広場に出たとたん到頭、命綱と頼む彼女を見失ってしまう。さてどうしたものかと考え込むと、眼の前に見覚えのある顔が登場する。オスピタル・デ・オルビゴで昼食のテーブルを一緒に囲んだ米西海岸の青年である。彼は、アストルガでアルベルゲを探す際も助けてくれた。ずっと早く着いたはずなのに今頃、ここで何をしているのであろうか。一瞬、その件について訊ねたくなったが、巡礼事務所の在り処の聴き取りを優先させる。大聖堂の裏にある主任司祭館の一角らしい。階段を降り右に真っすぐ辿れという話である。
道の機能は確かに果たすとはいえ、なんとも不思議な形状をしている。片側はすべて階段で昇り降りができ、上には土産物屋やバル/カフェが並ぶ。反対側には教会の主任司祭の関わる諸施設を擁する建物が聳える。入口は2つぐらいしかないから、どちらかが巡礼事務所に違いない。バックパックを背負う姿がちらほら行き交う。最近、事務所が移転したとまことしやかに語る人もいるため、こことは確信のないままにウロウロせざるを得ない。私たちは、無為に立ち尽くす。突然、入口の扉を押し開け青い制服の若い男性が出てきた。
恐る恐る「巡礼事務所はどこか」と質問すると、「貴方の前の建物で、私が守衛である」と答える。「何時に入れるのか」に対しては、「8時40分」という返事が返る。まだ30分待たねばならない。とはいえ、巡礼事務所の場所と受付開始の時間がはっきりして安心する。それに加えて私は、いつに間にか守衛氏の前、つまり先頭に立っていた。妻の後ろの髭ずらの男性がバックパックの中から分厚いクレデンシャルの束を出し、「フランス人の道だけでなく他のルートを回った成果だ」と得意げに手で翳す。自分の貴重な2冊を私は握り締める。
奥から2~3名の男女が顔を見せ、順番に入ってよろしいと合図をする。突き当たって右に曲がりしばし待たされる。すりガラスの扉が入室を拒む。扉の上に数字の書かれたプレートが掛かっている。数分後、6番にランプが点滅して扉が開き、左奥の窓口で若い係員が手招きする。求めに応じてクレデンシャルとパスポートをゆっくり提示すると、にっこりと「出発点はレオンですか。大変でしたね」と語りかける。プラスチック板で隔てられて味気なくはあったけれど、さすがに長い旅の疲れがじわじわと癒されて心地よい。
「途中、なにか考えましたか」振って来たので、「人間と自然と科学について少々」と返した。更に突っ込まれると降参するしかないと観念した。問答は終わったらしく、彼はなにやら書いている。私の名前・今日の日付・歩いた距離などの所定の記入事項であろう。文字が乾くのをしばらく待った後、筒を翳し「これ要りますか」という。「はい」とこちらが思わず応じると、「5ユーロです」と手を差し伸べる。ちょっとがっかりした。ただで寄越せとはいわないが、まるで店頭販売のやりとりではないか。ゴールの興奮がやや冷めた。
もらった紙は、どういうわけか2枚である。1つは、やや厚い薄茶色の上質紙に氏名・出発と到着の日時・出発地・歩行距離・主任司祭の署名が書かれている。レオン→サンティアゴ・デ・コンポステーラの距離は、311kmが公認の数字らしい。ガイドブックでは317.5kmとなっている。350kmと記載した旅行記をずっと以前に読んだ記憶がある。スマホの歩数計アプリは、333.66kmと大判振る舞いする。そもそも歩数計の数字は、迷子になったり寄り道した分も入るので、大きくなっても仕方ないであろう。
上記の巡礼証明書と同時にもらったもう1つは、100km未満しか歩かなかった場合に与えられる到達記念の歓迎証かと思われる。なにしろ情けないことにラテン語で書かれた文章のためまったく判読できない。こちらは、氏名と到着日時のみの記載される。紙質も、普通の白い紙である。何故に巡礼証明書だけでなく歓迎証までくれたのかはわからない。ひょっとすると歓迎証でない可能性もある。知り合いのリストをめくっていろいろ頭の中であげつらうものの、それほどヨーロッパ文明の歴史に深い造詣のある人物はいそうもない。
サティアゴ大聖堂の紋章と無数の帆立て貝の印刷された筒を持って廊下に出た。入った際は簡単に数えられるほど疎らだったが、今は大勢の巡礼者で文字通り立錐の余地もない。真っ先に憧れの宝物を抱えて現れた私たちは、まるでスターのみが浴びうる羨望の眼差しを投げ掛けられた。すっかり大人気なく舞い上がる。一抹の自制心が作用しなかったら、二人でスキップし踊ったに違いない。紛失したり壊さないよう道路の片隅でバックパックに筒をまずは仕舞った。何があろうとこれだけは、日本へ持ち帰らなければならない。
正午のミサには時間があり余るほどあるので、大聖堂の内部と周辺を大雑把ではあれ見学する。巡礼者だけでなく大勢の観光客の波に乗って足を踏み入れる。高い天井の広い空間で外の空気を少なからず遮断するためか、相当混み合っている割にびっくりするほどの冷気が頬を撫でる。3本のアーチからなる栄光の門の彫像群に圧倒される。中央の柱の上部で右手に巻物・左手に杖を持つ聖ヤコブが、2週間余に及ぶ長旅を優しく労ってくれる。達成感とはちょっと異なる突然の訪いを快く迎えてもらった安らぎに暫し浸った。
中央祭壇の横を立ち止まらずすり抜けて地下礼拝堂に降り、聖ヤコブの安置されている棺の前で再度無事到着を報告する。祭壇を右に迂回し階段を登ると、中央に立つ聖ヤコブ像の裏に出る。そこですべからく信者は、慣習であろうマントにキスをする。どうしようか散々迷った末に、信者ではないのに私は周囲に倣った。歳のせいであろうと思っているが、最近なぜか情あるいは雰囲気に弱い。状況の成り立ちや仕組みをしっかり分析しないで、ついふらふらっと近くの動きや流れに身を任せる。なにもかもが面倒臭くなったのかもしれない。
大聖堂の構造がよくわからないまま、列を離れないよう当てもなく前に従う。次は何処へ行き着くのか楽しみにしていると、なんと呆れたことに土産物ショップではないか。三大聖地の1つの施設にしてからが、名声を商売の糧とする振る舞いに驚く。洗礼を受けるのも悪くないかと感じたところであったから、驚きはたちまち幻滅に転化し自分を取り巻く現実に引き戻す。結局、バックパックに全然余裕がないことを口実として、土産物ショップでは絵葉書を4枚買っただけである。それよりなによりショップを出たかった。
大聖堂の裏にあるキンターナ広場は、プエルタ・サンタ(栄光の門)の存在で広く知られる。この門をただ通り抜けさえすれば、だれでも犯した罪がすべて許される。その言い伝えによってプエルタ・デ・ペルドン(免罪の門)という別称で呼ばれることも多い。聖ヤコブの日(7月25日)が日曜日となる際にのみ開門される。したがって、聖年ともなると世界中から罪深いキリスト教徒がサティアゴ・デ・コンポステーラに押し寄せ、7(現存するのは6)つの門のある城壁に囲まれる狭く古ぼけた旧市街が大賑わいと化す。
前回が2010年、次回は2021年である。私は偶然、18年前に居合わせた。投光器が広場を余すところなく照らしていた。どちらを向いても人人人がひしめき合い、どこが地面か、探してもまったく見えない。日本から大型車に機材を積みテレビクルーが押しかけ、珍しい日本人がいるとばかり私もインタビューを受けた。バックパックを背負った巡礼者同士が、涙で顔をぐちゃぐちゃにし抱き合っていた。ポールを掲げ大声で国家斉唱する愛国者の姿にびっくりした。喜びを爆発させる、感動を表現する形態にもいろいろある、とつくづく思い知った記憶が蘇る。
満面の笑みを浮かべて駆け寄る欧米のカップルがいる。ビジャル・デ・マサリフェのアルベルゲの食事会で向かいの席に座ったオランダのご夫婦である。巡礼事務所で手続きを済ませた直後と感激が収まらない。固い握手をして別れる。しばらくし「ブエン・カミーノ」と肩をポンと叩かれた。家族全員の代表として歩くと胸を張った韓国の女子学生にほかならない。7つのお守りがバックパックの両脇で揺れる。自然にハグをする。女性離れの逞しい彼女の肉体に尊敬を覚える。明日、フィステーラを目指すと息巻く快足ぶりに脱帽する。
なにかにつけ縁を強調したがる風潮は嫌うが、似た苦労を味わう同士の再会はやはり嬉しい。相変わらず足の指は猛烈に痛いけれど、頑張って歩き通してよかったと心底思う。このような気持ちを与えてくれた聖ヤコブに、感謝したいと振り返ったとたん態勢が崩れた。10数キロのバックパックが背中にあるのを忘れていた。荷物に乗っかるつもりが、右側に倒れ込んでしまう。柔道をやった経験がないので、イメージ通りに受け身ができない。膝から落っこち次いで肘を着いた。裏返された亀よろしく空を仰いで無様に転がった。
プエルタ・サンタの上に立つはずの聖ヤコブの像は、角度が悪いのであろうか視界に入らない。呑気に構える間もなく近くの巡礼者か旅人が駆け寄る。バックパックを素早く身体から外すや否や、助け起こし支えながら大丈夫かと話しかける。礼を告げ自分で立って深呼吸する。中年の女性が膝の屈伸をしろ、と同じ仕草を演じ忠告に忙しい。腰を心配そうに擦る若者もいる。「ムチャス・グラシアス」と頭を下げると、駆け寄ってくれた面々が散って行った。眼力にさほど自信はないが中南米の雰囲気の人たちが多かった気がする。
7~8名の男女が肩を組んで歌いながら祝っている。たぶん巡礼を無事終えられた感謝の動きに違いない。ほとんどが転倒した私に手を貸した顔ぶれと思われる。そっと目礼しその場を後にした。幾度となく反芻しつつ胸を熱くする。挨拶一つ交わしたことのない相手の危急に馳せ参じる。どうしたらそのように行動できるのだろうか。我が身を振り返って恥じ入る。祖国を脱出する難民に対して、自分はひたすら無為と開き直る。不条理と対峙する時、理論や主義や命令に拠らず立ち向かう心根の人間となれるよう努めたい。
巡礼最終日後半(キンターナ広場⇒ホテル・サンフランシスコ・モヌメント)
正午に始まるミサまで十二分の時間がある。とりあえず17年前に泊まったホテルを予約したので、重い荷物を降ろしシャワーでさっぱりすることにした。17年前に泊まった際はパラドール・サンフランシスコと名乗っていたと記憶するが、現在はホテル・サンフランシスコ・モヌメントと変更したらしい。修道院を改装した施設は、かつて宗教色が濃く居住まいを正さねばならない雰囲気であった。しかし、眼前のコンクリートとガラスの組み合わさった建物は、エッフェル塔が建設当初パリ市民に与えたとそっくりの衝撃をもたらす。
屋内プールとホットタブを売りにする新ホテルの受付は、当方の警戒心と裏腹にとてもエレガントで親切であった。巡礼者を優遇するルールがあるとかで、通常のツイン料金でセミスイートを手配してくれた。バルコニーに出てサンティアゴ・デ・コンポステーラの街並みを眺めると、2週間強に及ぶワイルドな日々が途方もなく遠い世界の出来事に感じられる。早速、シャワーで肌にこびりついた垢をとことん洗い流し、超キングサイズのベッドで思いっきり手足を伸ばした。しかし、眠っては困るので、予定を検討した。
1時間前に入れば必ず座れると予想していたが、大聖堂は息苦しくなるほどの混み具合いであった。散々苦労して中央よりやや後ろの右端に2つ席を確保する。右隣りは祭壇の様子を覗う参会者と座席探しに動く人たちでごった返す。左側は巡礼の途中ですれ違った高校生男女の赤シャツ軍団である。彼らが中央より後ろのほとんどを事実上占拠するため、他の参会者の着席可能な部分が各列の両端の1~2つに削られる。ヘッドフォンの音楽に聴き入る少年がいれば、座席を跨いで移る少女も現れる無法ぶりである。汗一杯の先生たちが注意に駆け回る。
人垣の奥から誰かに呼ばれた気がした。きょろきょろ首を巡らすと、懐かしいカップルが手を振る。なんとカスタニェーダのバル/カフェで泣きながらタクシーに乗り込んだスペイン女性とブラジル男性である。あれから3日も経つが、ずっと滞在しているのであろうか。私たちを探して毎日ミサに出向いてくれたのか。残念ながら彼らは厚い列に阻まれ近づけそうもない。こちらが席を離れるのも無理である。文字通り後ろ髪を引かれる思いで座り直す。彼らの間柄を知る術はないけれど、二人に幸あれと祈るばかりである。
ミサが始まる。ざわめきが嘘のように鎮まった。讃美歌をきっかけに式がたんたんと進む。最初こそ司会者の声が一応耳に届いたものの、杓子定規な物言いに参会者の緊張の糸が切れる。とりわけ赤シャツ軍団の少年・少女の我慢の閾値は低い。ひそひそ声のトーンが次第に上がり、遂には先生の叱正が方々で響き渡る。11時までに巡礼事務所で手続きを終えると出発地・出身地(または国)と人数が読み上げられる。そのように教えられたため耳をそばだてるが、周囲の雑音や嬌声が邪魔をしてままならない。結局、自分たちの名前の紹介は聴き取れずに終わった。悔しい限りである。
司祭の説教・言葉の典礼に続いて聖体拝領が行われる。中央の通路で待つ司祭の授けるパンを受けようと信者たちが一斉に起立する。さっきまで騒音の発生源であった赤シャツ軍団が通路に並ぶのに正直びっくりした。さすがにカトリックの国で育った少年少女たちである。やんちゃ坊主やお転婆であっても、いざという際には敬虔なキリスト教徒として行動する。ある種の畏敬の念を心の片隅で密かに抱きつつも、宗教的献身が異教徒の迫害に流れないよう望む。妻に促されて一瞬参列を考えたけれど、自分のいい加減さを改めて悟り断念する。
クライマックスとして天井にぶら下がったボタフメイロ(大香炉)がゆっくり姿を現す。赤いローブを纏う屈強な男性8名が反動をつけ、滑車の先で揺れるロープの振り幅を徐々に大きくする。因みにボタフメイロは、高さ1.60m、重量80kgあり、黄銅の合金と青銅に銀メッキが施される。パイプオルガンの響きを通奏低音とするボタフメイロの往復は、不気味な風音と相俟って参会者を無限の彼方に引き寄せる。18年前の初経験の時と比べると多少落ち着きはしたが、香の香りと風音を伴うボタフメイロには依然圧倒される。
興奮覚めやらぬ心理状態のまま大聖堂を後にし、空腹を抱えて昨夜泊まったアルベルゲ付近へ向かう。高速バスのターミナルで明朝出発するポルト行きのチケットを買わねばならない。ゴールを目指すのに精一杯で2日先の行動予定まで意識が及ばなかった。アルベルゲに面した丘の上にターミナルがあると知ってがっくりきた。レストラン探しの途中、大型バスがひっきりなしに出入りしていたのを思い出す。また、同宿の巡礼者たちの多くがゴールを済ませていたのも頷ける。彼らは多分、高速バスに乗るつもりであったと思われる。
カミーノ門を潜り抜け大学の建物沿いに進むと自動車の往き来が激しい幹線道路とぶつかる。数時間前に通ったルートをそっくり折り返すのは悔しい。それよりも門を境にして旧市街と幹線道路は、あまりにも違い過ぎて頭が混乱する。疑問を解くために調べたところ、サンティアゴ・デ・コンポステーラの持つ複数の顔に気づいた。第1は、巡礼と関連する宗教都市の顔に他ならない。キリスト教の三大聖地に名を連ねるのは他に真似のできない点である。第2は、観光都市という顔である。こちらは、第1の延長といってよい。
第3の顔は、政治ないし行政と強く結び付いている。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、人口95,800人を擁するガリシア州の州都である。空港・鉄道駅・高速バスターミナルなども整備され、国内諸都市はもちろん他国との交通の連結役を果たす。第4は、由緒ある大学が存在する教育都市である。創立は15世紀にまで遡り学生数も、学部39,007名、大学院3,547名に上る。実に人口の44%強を学生が占める。成人に限定すると学生の割合はさらに増える。巡礼者や旅行客に窺い知れない側面があって面白い。
一度大学のキャンパスを訪ねたいと考えるうちにターミナルの建物が見えてきた。鮫の口そっくりの発着場から続々とバスが吐き出される。坂の勾配を利用して造られているため、道路と直結するよう1階が発着場となり、その上にいろいろな部署が配置されている。3階がチケット売り場らしい。複数の会社が乗り入れているけれど、会社別にレーンが決まるわけではない。会社とバスの行き先とレーン番号を売り場で料金と引き換えに渡されるチケットと照合する必要がある。現場に行かない限り自分の乗るバスはわからない。顧客無視のシステムに怨嗟の声を飲み込む。
発着の様子をしばらく観察した後、階段をとことこ昇って3階に出た。建物の外側にある道を歩いても辿り着ける。通常、客は外からチケット売り場に来て、地下2階の発着場までトコトコ階段を降りる。階の名称などどうでもよく、要するに3層の建物である。私たちの乗るポルト行きのバス会社アルサの窓口は、極め付きの外国人が係員といつ終わるとも知れぬやりとりをしている。ベンチで暇を潰して構わないのであるが、順番確保のために後ろで待たねばならない。この忍耐こそが海外旅行を詰まらなくしない秘訣である、と密かに胸の内で納得する。
ポルトまでは鉄道でも当然行けるが、ビーゴで乗り継ぐ上に1泊する不便ぶりである。本数が多いだけでなく乗り継ぎをしないで済むので、ヨーロッパでは鉄道より高速バスの利用が盛んらしい。ただし、渋滞に巻き込まれたりトイレ休憩がカットされるリスクは軽視できない。今回はポルト滞在の日数が1泊多くなるようバスに決めた。巡礼中の足指の損傷で2日ほど損をしてしまい、コインブラに立ち寄るのを断念したのも影響した。ともあれ、飛行機も含めて交通手段に選択肢が複数ある点は旅行者として嬉しい。
二人分の料金66ユーロを支払って外へ出る。時計の針は、すでに午後3時を若干回る。NHKの幼児番組の歌ではないが、本当に“お腹と背中がくっつく”状態である。チケット売り場の裏側にあるカフェテリア・ミレニオでハンバーガーとミックスサラダとビールを貪った。飢えを満たしたとなると、次に近づくのは睡魔である。ビールの酔いも加わって、瞼が重くなり意識は遠のく。しかし、寝こけるわけにはいかない。今宵は、ゴールインの祝歩晩餐会を素敵なレストランで開催するつもりだからである。眠気を払い立ち上がる。
当分は胃袋が食事を受け入れる態勢になりそうもないので、どんなレストランがあるかを予め調べておこうと散策する。両側にずらっと候補の店々がいらっしゃいと招く。生簀で魚の泳ぐ様子を見せるのが売り物かと思うと、挿絵入りのメニューを大看板で路上に飾ったりする。日本の焼き鳥屋そっくりに調理場面を晒して呼び込む店もある。多少高級感の漂わせる店となると、制服姿のスタッフが入口で微笑む。狭い路地のせいか外で飲食する光景はあまりない。午後7時過ぎにもかかわらず客の賑わいは始まりかけたところである。
3周ぐらいすると流石に疲れた。3つの小路の交差する場所にあるちっぽけな空き地で一休みを試みた。いくつかテーブルとベンチが置かれ、噴水の周りの石の手摺にも腰掛けられる。人種・年代・階層・性別・職業の異なる人々が集い、黙って座ったり本を読んだり楽し気に話したりする。乳母車で赤ちゃんを眠らせ、ベンチを占領する家族がいる。両親はともかくとして小学生の女の子の、肩から二の腕にかけて刺青が彫ってある。ビジャル・デ・マサリフェの食事会でカナダの若い看護師が、「刺青はファッション」と力説していた場面を思い出す。
のんびりした静寂が唐突に破られた。5~6名の若い男たちがすぐ横のレストランから飛び出して、「イターリア、イターリア」と叫びながら輪を組んで踊り始めた。サッカーのヨーロッパ選手権の決勝リーグでイタリアが予想を覆して優勝候補のスペインに勝ったらしい。喜びを爆発させたいのはわかるが、スペインのど真ん中で失礼ではないか。両国サポーターがぶつかったら、この聖地で困ったことになる。一瞬、緊張で全身が強張った。しかし、それは杞憂で済む。誰も彼もがニヤニヤ笑うだけで怒った顔は皆無であった。イギリス人と違いスペイン人は、フーリガンにならないようだ。
8時近くなったので意を決した。エル・トレボルは、肩幅ぎりぎりの通路の先に結構広いテーブル席が並ぶ好感のもてる店内である。英語のメニューを睨んで暫し熟考するものの、なかなか晩餐に相応しい料理を発見できない。迷って四苦八苦する末に突然重量付の項目が興味を引く。Tボーン・ステーキである。500gと900gという究極の選択で前者に決めた。サーロインとヒレをそれぞれ2対1に切り分け、当然ではあるが私が2と妻は1の割合で皿に盛る。ボリュームはもとより味の素晴らしさといったらなかった。
サーロインの抑えた脂身がしっかりした歯ごたえと相俟って絶妙である。ランクアップさせたリオハの赤ワインが味の重厚さを更に引き上げる。ヒレも、日本で馴染みのパサパサ感が影を潜め、サーロインと違うコクを執拗に訴える。ワインに対しては少し力不足が否めない。ガリシアを訪れて肉しか食べないのもどうかと考え、鳴り物入りのプルポ・ガリェーゴ(茹でタコ)を頼む。期待に反しパッとしない。メリデのプルポ・ア・ラ・フェイラとは雲泥の差である。10時となり最後の宴は終わった。ここに巡礼の旅は、ややあっけなく16日間の幕を閉じる。