2017年8月10日
エヴェレスト(1) 中河与一
「ヒマラヤならばエヴェレストを、アルプスならばユングフラウを。海ならばさしずめ印度洋の真ん中を」
と書いたのは、私が偶然論に熱中してゐた頃のことである。もう三十年も前のことであるが、余ほど熱心にそんなことを考へてゐたものとみえる。と云つても、実際そんなところへ行けるとは考へてもゐなかつただらうし、それ以上に生活にあれ、文学にあれ、そんな高い世界へ行けたらと願つてゐたのかと思ふ。
昨今はやつと北アルプスやその他の山々程度を歩いて自然の中に自分の孤独を慰めてゐるが、もうそんな空想は、文学の上でも生活の上でもまた実際の上でも考へなくなつた。自分の才能にも体力にも限界が来てゐると考へてゐるからでもあらうか。
ところが二月二日、ノルゲー・テンシンといふ実際そのエヴェレストの頂上を極めた人が日本にやつて来た。それは五、六年前から来る来るといひながら実現せずにゐたことであつた。私は彼についていろいろな記録を読んでゐただけに彼の来たことをこの上なく喜んだ。