2017年10月3日
日本の女のはだか(5) 高橋義孝
たしかなことは、そこにひとりの日本の女が裸で立っているということである。
奈良の寺でこの観音像を自分の目で見たとしたら、これは単なる仏像にすぎず、以上のようなことは言う気にもならず、言えもしなかっただろう。偶々下半身が網目のぼかしの写真版になっていたので、襞の多い衣の下の両脚がにょっきりと外へ現れ出てきたのであった。
写真は肖像画に及ばない。通念はそう言って安心している。ところが、この十一面観音像のように、味も素気もない平凡な写真技術が却って、ぼんくらの目には見えないものを見せてくれた。
十一面襯音像は、近代のリアリズムをせせら笑って立っている。