2017年10月3日
ポルト観光(2)プロローグ 影山喜一
ポルトガルに興味を抱き続けるのは、個人的な思い込みに根差す2つの理由が存在する。1つは、最近再映画化で話題になっている遠藤周作の『沈黙』と係わる。17世紀の長崎で実際に起こったキリシタン迫害を題材とした宗教小説は、すでに篠田正浩が1971年に手掛けて一世を風靡した。そして昨年末、アメリカのマーティン・スコセッシ監督による作品が、幾多の紆余曲折を経て公開の運びと伝えられた。
「この国(日本)はすべてのものを腐らせてしまう底なしの沼だ」という台詞は、わが国の精神的土壌を的確に言い表し1970年代初頭の流行語となった。敬い仰ぎ見て祈る対象として神や仏を絶対的存在とせずに、己の数段上に鎮座するごく身近な存在と位置付ける志向は、信仰というものの厳しさの点でキリスト世界とはっきりと一線を画す。筋金入りの宣教師といえども、沈黙する神の前で棄教せざるをえなくなる。
ここで映画や小説の解説をするつもりは毛頭ない。主人公がポルトガル人である点を指摘したかったことに尽きる。史実によれば本当はイタリア人であったという。遠藤が宣教師の国籍を、何故イタリアからポルトガルへ変えたのか、いろいろ探ってみたけれど一向にはっきりしない。作品が読者ないし観客に与えるインパクトを巡り、ポルトガルの方が効果的と考えたからではないか。