2017年10月19日
浮世バンコ(5)終 野田宇太郎
浮世バンコの人々はその話の間中固唾を呑んでゐた。わたくしは好きな白首のあねしゃんの膝にもたれて、襲ひかかる睡魔とたたかひながら、終りまでそれを聞かうとして、月のない夜空で星がきらきら、さっきの女の通った道の花のやうに輝くのをにらんでゐた。話が終ると誰かが「-もしそん門があいたら……」と問ひかけた。女は「死んでましたやろ」と小さく答へた。わたくしははっと眠気がさめるのを覚えた。
父は一人息子のわたくしを医者にしようと考へてゐたらしいが、わたくしは医者にならなかったから、麻酔でおこる幻覚がどんなものだか未だに知らない。それも薬品によって幻覚の種類が違ふのではないかと想像するだけで、まだ友人の医者にもたづねたことがない。
しかし、戦前に手術を受けた人からは、これによく似た覚醒時の幻覚の話を聞く。そして最近の進歩した手術では、ただ麻酔中は楽だと云ふだけで、押しても開かない花の門の話はきいたことがない。