2017年10月20日
肌に触れる(1) 佐藤東洋麿
と言っても与謝野晶子の柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君とは大違いの肌、自分の手首から肘までのカサカサして干からびた肌である。見た目だけならどうということもないが、とても痒くなった。むろん躯全体が老いている筈だが腹だの太ももだのは、だぶついたり垂れ下がったりしないよう気にする。
そんなに自らを虐げるような気分でどうする、と心のなかで叱咤する。この程度の不具合でぼやくな。失ったところを嘆くのでなくまだ有るところに感謝しろ。痒みや僅かな痛みや、ズボンを身につけるときに片足で立っていられない為にふらつく情けなさに知らんぷりをして凛として胸を張れ。ボードレールの詩「小さな老婆たち」にも、華やかなパリで惨めによたよたと歩く群れのなかにたったひとり、
ときおり老いた鷹のような目を見開き
大理石の額は月桂冠受けてもいい風情だった!
Son œil parfois s’ouvrait comme œil d’un vieil aigle
Son front de marbre avait l’air fait pour le laurier !
と描かれている。この詩を文豪ヴィクトル・ユゴーへの手紙に添えたとき(1859年)詩人は38歳、あちこちに苫しさをかかえ、老婆たちへの共感は実は我が身との一体感があったからだろう。私がふと胸をつかれたのは、最終2行の「明日あなたたちはどこに居るのだろう、80歳のイヴたちよ、神さまの恐ろしい爪に抑えつけられている人々よ」というくだりだった。