2017年10月26日
字引のこと(2) 木山捷平
広辞苑の前の持主は潮田由利子さんという人である。早稲田大学潮田由利子とペン書きの達筆で署名がしてある。私の推定では由利子さんが大学の入学試験に受かって間もなくこの字引を買って、この署名をしたように思われた。そういううれしい気持に満ちあふれているような筆勢である。しかし在学中はあまりこの字引は使用しなかったもののようであった。いや、使用してもきわめて丁寧に使用したもののようであった。女らしい優雅な手垢がほんのりとついているだけであった。
私は折角だからその優雅な手垢を大事にしようと思った。が、実際面において、私の字引の引き方は乱暴である。私の黒い手垢で、由利子さんの手垢は、いまではあとかたもなく消えてしまった。
私は昭和三十八年の七月十二日、岩波の西尾実、岩淵悦太郎共編の国語辞典を買った。これは新刊屋で新品を買った。理由は大型の広辞苑が私の体力では重くなりすぎたからであった。