2017年11月7日
ある絵とその作者(1) 斎藤玉男
前 歴 私はリトアニアの駅馬車の駅者の子として12人の同胞の間に生まれた(1892年)。幼い日独りボッチで誰とも遊ばなかった。→感化院入り(1906年)→庭師の徒弟、続いて第二次感化院入り(1908年)→小作農の作男(1909年)→サーカスの馬小屋の掃除夫→再び農場の手伝夫、年上の同僚から強制的に同性愛の対象とされ、発覚、逆に農場主と相手の同僚から虐められたのに憤慨、チーズナイフを揮ったので精神病院へ送られた。第一次入院5ケ月(1910年)→徴兵、出征、軍医の診断では「遺伝性欠陥をもつ治癒不能の精神薄弱」(1915年)→郵便集配人、密輸の手伝い、第二次精神病院生活(1917年)→脱院、半月後に憲兵や看護夫に取り囲まれ丸鋸の歯を揮って反抗、消防隊のホース攻めに遭い医療刑務所送り、医長の宣告では「裁判所の決定により、国家公土ハの安寧をおびやかす精神病者として終身監禁の要がある。この病症は不治である」(第3次入院)→そこでハンスト決行(1918年)→第一次大戦終了、リトアニア革命、所属国家が消えたので自然釈放。
ベルリンに占星術と電磁気応用の治療所を開く、ミュンヒエンに心霊術研究サークルをつくる(1920年) →実験詐欺の廉で6週間の禁錮(1930年)→ベルリンの仕事を継続中4たび精神病院収容、ここで画心のある患者から画の手ほどきを受けた→釈放→医療法違反で再検挙。
ベルリンで貧民救済に従事(1937年)→第二次大戦に応召、軍務に堪えずとの理由で即日除隊→義妹と地下窖住い、焼材木を薪に売って細々生活した(1944年前後) →作品が百点近く溜った頃クビセック教授に認められ、シュプリンガー画廊が20点を買上げた(1949年)。→以後同画廊の専属となる。この頃西ベルリン芸術学校は私の作品や講演を「善良なる風俗に反する」として、校内への立入り及び搬入を差止めた。
これが私、即ちフリードリッヒ・ゾンネンステルンである。