2017年11月21日
光明の后と鑑真和尚とリビドゥ[上]-1 斎藤玉男
この頃半日の閑を得て和辻哲郎氏の昭和二十一年改訂版「古寺巡礼」を読み返す機会に恵まれた。故人の専門眼の確かさと、歴史への味解の邃(ふか)さと、併せてその人柄から来る独特の体臭に惹かされて近来にない愉しさを楽しんだ。
筆者の注意を何にも増して強く烈しく捉えた話頭は法華寺、即ち法華滅罪の寺の十一面観音に始まる。和辻氏によるとこの作は「豊艶はあるが何となく物凄い」「何となく秘密めいた雰囲気に包まれて」「もり上った乳房、豊満な肉づけ、奇妙に長い右腕の円さ、天衣を撮んだふくよかな指に移って行く特殊なそのふくらみ……その美しさは天平の観音のいずれにも見られない隠微な蠱惑力を印象する」とある。そしてこの作を密教芸術の優秀作と断じ、密教芸術には特に著しく肉感性が現われると言い、「あらゆるものに唯一真理の表現を見ようとする密教の立場から言えば、女体の官能的な美しさにも仏性を認めて然るべきである」とし、「しかし、この種の美しさ(肉感美)の底に無限の深さを認めることは、女体の彫刻に神秘的な暗さを添えると言う結果を導き出した」「そこには肉感性を敵とする意識と共に、肉感性に底知れぬ威力を認める意識がある」としたあたりはこの人の観察欲の細かさ深さまたは貪婪さを物語ると言えよう。
写真で見てもこの像の右腕はいかにも長くて明らかに膝以下に達して居る。和辻氏は「右腕の異様に長いのがいかにも密教臭いが、しかし大安寺の十一面観音なども同じ程度に長い」と片付けて居るが、この点はこの篇の終りにリビドゥ説の立場からモウ一度触れて見たい。