2017年11月22日
光明の后と鑑真和尚とリビドゥ[上]-2 斎藤玉男
ここで興福寺濫觴(ランジョウ)記(キ)が引用される段取りとなる。そこでは北天竺乾陀(ガンダ)羅(ラ)国の見生王の生身(ショウシン)の観世音を拝みたくて発願(ホツガン)入定(ニュウジョウ)三七日に及んだ。その時に「生身の観音を拝みたくば、大日本聖武王の正后光明女の形を拝め」と言う告があった。大王夢覚めて思うに万里蒼波を渡って遠国にゆくことは到底実現し難い。そこで再び一七日入定して祈った。今度は「工匠をやって彼女の形像を模写させて拝むがいい」とあった。王は歓喜して工匠師を派遣した。それが天竺国毘首猲摩(びしゅかつま)二十五世の末孫文答師(又は問答師とも書く)であった。ここで光明皇后との一問一答が行われる。
⦅自分は不比等(フヒト)大臣の娘で今は皇后の身である。異国の王使に
会う訳にいかぬ。しかし自分の願を叶える力があるなら会いましょう
⦅私の力に及ぶ限り御力になりたい
⦅自分は亡い母橘夫人のため興福寺の西金堂(コンドウ)を建てて居りま
す。そこの本尊の阿弥陀を製って貰いたい
⦅その御趣旨ならば釈迦像がふさわしいでしょう。釈迦は母君麻耶夫人
に忉(トウ)利天(リテン)で報恩された例があります
と言う訳で、註文通りの造像が我朝の仏師三十人の助を得て脇(ワキ)侍(ジ)まで完成された。当時三十二三歳であった皇后は親しく工事場に臨まれ、文答師が拝謁すると正(マサ)しく十一面観音として拝まれたので、これをモデルとして三躯の観音像を製り、一体は初め内裏(ダイリ)に、後に后の宿願で出来、大倭(ヤマト)の国分尼寺となり孝謙上皇の住居ともなった法華滅罪寺に、一体は施眼寺に安置し、一体は本国に捧げ帰ったとなって居る。
以上は物語以上に出でないとしても、和辻氏が言う通り、これらは少なくともあり得たことである。問題はそれがあったか、なかったかよりも、あり得たか否かにかかる。それは時代の渇仰心の深度の受容し方によって定まるのであろう。皇后が時代を通じての女体の理想像であったことはこの外にも数多い事実や伝説が例証する。それから二十五六年後皇后の一周忌には全国の国分尼寺に詔を受けて丈六の阿弥陀一躯と脇侍菩薩二躯が作られた上に、法華寺の中に阿弥陀浄土院が建てられた事実がある。