2017年11月30日
光明の后と鑑真和尚とリビドゥ[上]-7 斎藤玉男
これ等の中、西域から来た(朝鮮生れとも言う)如宝が招提寺金堂を二十五六歳(三十過ぎてとも言う)で建てたと「招提千載伝記」では言う。この入は後年鑑真から具足戒を受け、下野薬師寺の戒師となった。彼は大和尚の遷化に際し法載義静の二先輩と並んで後事を託されたのみか、次の弘仁朝の招提寺座主をも長く(四、五十年と言われる)勤め、教説と建築を兼ねた異才であった。
次に挙ぐべきは東南アジア出身の軍法力である。彼は招提寺講堂の優れた仏頭の作者と推定されて居り、その手法にはインド彫刻の血脈が流れて屠ると言われる。