2017年12月6日
光明の后と鑑真和尚とリビドゥ[中]-4 斎藤玉男
話題は再転するが、和辻氏は法華寺の十二面観音に関連して密教彫像に官能的な肉感美を認め、勇敢に、密教芸術には肉感性に反撥する意識とこれに摺伏する意識とが竝んで支配することを説いて居る。蓋しアジャンタ以下の作品を卒直に承認する態度であり、彼のこの態度は平明で豪直でもある。言うなれば当時にあって西欧批評圏の因習から解放された新批評眼の登場の告知でもあった。
これは現代日本に見られた嘱目すべき動きであった。由来わが国では二面深刻に(ではあるが、また他面かなり浅薄にとも言われなくもなく)固有の道学的伝統に縛られ、他面新輸入の中世紀的香気の濃いキリスト教義的制約にひどく随順して、官能や之に密着する肉感性の評価を故さら敬遠した傾向がある。それに真っ向から対向するこの種の動向は、当然起って然るべきものであったと言ってよい。確かにこれは紛れもない空谷の一跫音であった。
思うに天平の民は是等の新刺戟の到来を意識下に待望した。それは彼らにとって自己の情操の内有する弾力性をためす試金石でもあった。ここに昭和人の発明した和銅の古僕さと弘仁の繊細さに挟まる天平期の芸術のもつ意義が改めて認められてよいと思う。