2017年12月11日
光明の后と鑑真和尚とリビドゥ[下]-3 斎藤玉男
勿論、これは彼の意識の底流層でのことである。リビドゥが深い性的因子に基ずくと言っても、それは性的と言う意味が汎く且つ深く且つ緊密に人性の深奥所に根ざして居り、フロイトが説く程度に、否、〔私見を表白すれば、彼が考えるよりも遙かに深く酷烈に〕人間存在の核心に座を占めて居る、その底流層から鑑真の渇仰心を指向し支配して居たとする見方は成り立たないであろうか。
言うなればこの心境の高さに於ては、鑑真のリビドゥは多年彼を浸潤した絶対真渇仰の至境と渾然として合一混融し了った姿であるに違いない。それは性なるコトバの真諦が昇華され昇華され尽した終局のもので、正に生物存在の原始の動きと渾一したものでもあったであろう。彼の思慕が十七年に亘る至高至純の情熱で温ためられ、待望の生身仏に接し得た瞬間に、不幸彼の視力が完全に失われた状況であったことは、皮肉と言うに余りにも皮肉な宿命と言う外はないが、併し彼の享受し得た至福は恐らくそれで蘭ける所はなかったことであろう。彼のリビドゥが達し得た境地はフロイトの想到した所より遙かに高潔なものであったと想察出来る。ここでは和辻氏の言わんとする「密教的の肉感性」、「女性の官能性に湛えられる仏性」、「肉感性を敵視する意識とそれのもつ威力への随順の対立」が無理なく調和して、天平後期の輝かしい芸術の香芳を温醸させたと見ることが自然である。即ち肉感性、出ー3能性は鑑真及びその弟子にあっては仏性と膚接し、卒直な渇仰の対象であること、アジャンタ信仰と軌を一にすることが理解出来る。
嚢に法華寺の十一.面観音の右腕が長きに失するかに就いて触れたが、仏像が渇仰の対象であり、それがそのまま高次のリビドゥの表現に通ずる乏すれば、左手が印を結んだり香筐を支えたりするのに対し、右手が自由であるこの種の像の場合、それがリビドゥの濃度とも名ずくべきものを象徴することになり、自然その長さを濃度に比例させるとすれば、ややこの間の釈明に役立つのではあるまいか。