2018年8月1日
かがし(案山子)-2 保田与重郎
このうち常識のかがしといふのは何かといふことについては註釈が入用である。かがしの原型とその意味が、今では一般から忘れられてゐるからである。
この句を蕪村の作として、その時代を江戸の後期と見ると、江戸期を通じての常識上のかがしといふのは、どういふものだったかといふことを考えねばならぬ。かがしの形態とともに、当時の農人の考へにあつたかがしの観念を考へてみねばならない。さういふ手つづきは、この句をいく通りにも解釈した時の、一つの解釈の前提となるもので、しかもいく通りかの解釈に、それぞれ様々にさういふ手続きが必要なのである。
古事記や万葉集については、江戸期の国学といふ学派の人々が、さういふ手順をふんでおいてくれたから、我々が古代から王朝にかけての文芸を理解する上では、新しい封建時代の文芸を解釈するよりやさしい。江戸期の文芸の場合、江戸市民の社会文芸の根抵は、明治時代の文人を通して理解する方法もあるが、地方文芸や上方文芸となるとさらに容易でない。江戸文芸は、すでに市民(ブルジョア)文芸だが、同じ江戸期でも⊥方文芸はさうでない、まつたうな文学の相を蔵してゐるからである。