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2018年8月8日

逸品三点 結城哀草果

    写 真

 朝日新聞社が発行する雑誌「アサヒカメラ」に毎号連載されてゐる、『写真「新・人国記」』の五月号は東北地方の番組で、秋田県の武野武治氏、宮城県の千葉あやの刀自と山形県から私の写真が、木村伊兵衛先生の撮影で掲載されたのである。
 その撮影のために木村先生は、「アサヒカメラ」の記者と二人で、東北辺土の農村に住む私の家まで、東京からはるばる来られた。お二人は仙台と山形とを結ぶ仙山線の途中に在る、作並温泉に一泊されて、三月十七日の午前十時ころ拙宅に着かれたが、その日は春の淡雪が田園山野を薄化粧した日であつた。先生は茶を召上ると、すぐさま私を撮影にとりかかられた。その写真は茶の間にゐる場面と、台所の炉辺に坐つてゐるところと、倉の書斎で机を前にしてゐる場面とである。また私の住む小さな村の、榛の木の立つ小川の流れてゐる郊外を背景にして、私が立つてゐる場面の四題であつた。
その四題のために木村先生は、八十回ほどの撮影を、きはめて真剣に行はれたのである。そして四題のなかから、茶の間にゐる写真が「アサヒカメラ」の五月号に掲載された。撮影後に木村先生の語るのには、写真は写真機を使つての撮影ゆゑに、画家が筆を持つよりも、いつそうむつかしいとのことであつた。それは写真機は筆のやうに、人間のおもふやうにならぬといふ意味である。
 これまでも私を撮影に、新聞や雑誌社からたびたび来られたが、私の撮影がをはると、きまつて家族揃つての写真を撮影するのが、常識のやうになつてゐたが、木村先生は徹頭徹尾私一人に全力を集中されて、よけいな愛嬌はしないところに、第一人者の面目があり尊いことだと教へられた。


    絵 皿

 秋田市に住む平野政吉氏の所蔵する「平野コレクション」は、全国的に有名であるが、なんといつても、藤田嗣治画伯が秋田の十ニケ月の行事を描いた、高さ丈余のまた長さ十二間余もある大壁画は、息を呑むといふよりも、息が止るほどの力作である。この大傑作は画伯が戦争中に秋田に疎開し、身を平野政吉氏に寄せた際に、平野氏は全力を争げて画伯を肚話し、二人の呼吸がぴつたり合つて出来たのが、この大傑作なのである。平野氏は藤田画伯の傑作をはじめとして、肚界にわたる最高芸術晶を数多く聚集してゐる。その.平野氏を称へて私は、

 秋田の風土が産みし勝れし人間平野政吉のその一本気

といふ歌を作つてゐるが、なにしろ秋田でなければ、生れない人物だとおもふ。
 その平野氏の一本気と私の一本気とが合ふのか、他人にはむづかしい.平野氏は私には優しく、こころから歓迎するのである。今年の五月ころ短歌会に招かれて、秋田市に行つた時も、平野コレクションを観せて貰つた。その際私は平野氏から、藤田嗣治画伯がフランスの少女を描いた大きな絵皿を戴いたのである。現在フランスに在つて、世界的な画家として謳はれてゐる藤田画伯の健康を、平野氏が案じて、その子息を巴里まで見舞に使はしたのに、画伯が平野氏に届けたのが、私が貰つた絵皿である。そしてその少女の絵の線と色彩の勝れたうつくしさは、言語を絶するばかりだ。


    勢 多 迦 童 子

 東京三越本店の中央に建てられて在る、高さ三丈六尺(十一米)の天女(まこころ)の像は、佐藤玄々先生の作である。先生は相馬中村の出身であり、また先生の祖父は私の住む山形市に生れて、その職は仏具師だつたといふ。先生はフランスに渡り、ブールデルに入門して、彫刻を習得したのであるが、その師の元を辞して帰国する際に、ブールデルは玄々に向つて、「汝の血汐をもつて祖国のために作品を作れ」ときびしく教へたのである。玄々先生はその師の訓戒を厳守して、その作品はあくまで日本的なのである。
 ところが大抵の者は、西洋に行つて勉強すると、その作品が西洋の影響を受けるのであるが、玄々先生の作品はあくまで日本的であり、日本人の血をもつて作つてゐる。ひとり芸術はその個性が、他の個性の影響を受けること位、大きなマイナスは無い。その点玄々先生の作品は、あくまで日本的であり、日本人の血汐をもつて作られてゐる。また三越の天女の像の色彩が、美しすぎるといふ批評に、玄々先生は百年後になると、丁度よい色彩になると答へたといふが、目前の流行に右往左往してゐる徒に、先生の爪先でも煎じて飲ませたくおもふ。
 その玄々先生が戦争中は、故郷の相馬に疎開された。その際に相馬細田に住む教育家で歌人の松田亨君が、先生を手厚く世話された関係で、先生の、勝れた作品が松田君の手元に遺されてある。その松田君がまた私の短歌の門人であることから、この夏に相馬の野馬追を観に行つた際、松田君宅に泊りあまつさへ玄々先生筆の「勢多迦童子像」を貰つて帰つたが、その筆の旺勢にして簡潔、内蔵するもの千万無量、傑作中の傑作である。



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