2018年8月22日
メエル・エスプリ(下) 丸山薫
日曜の午前、約束の十時かっきりにKさんは新聞紙ぐらいの帆の端ギレとマジック・インクと詩集とを携えて、初めて僕の眼前にあらわれた。四十そこそこの働きざかり。長身肥大。潮やけでもあろうか、見るからにつやつやとして活気の溢れた貌によく似合う色の背広を着た、堂々たる偉丈夫である。
だが風采や躰に似合わぬ低い声で、Kさんはポツリポツリと海の話をした。話題はもっぱらヨットの構造とかヨット.マンの気質とかセーリングの体験談とかだったが、時代こそ違え僕とは中学が同窓なので、母校についての共通の思い出ぱなしなども少しは出た。そんな雰囲気の中でつい気安くなり、「誰もいない沖へ出たとたんに、ネエヴィ・ブルーのマストに軍艦旗がひるがえるんじゃないかな」と冗談を言ったら、Kさんも他意なく笑ったりした。壁に掛かった練習船の写真をじっと見上げたあとで、お礼には船のランプを持ってきましょうと言った。そして僕の注ぐホワイト・ホースを二、三杯あけながら軽食をたべて帰って行った。
あれから旬日。字の下手な僕はまだKさんへの約束を果していない。昨日、預ったままの帆布(セール)を炬燵の上にひろげて、さてどんなふうに書いたものかと思いをめぐらしていたら、ふいに目前のテレビの中に海王丸出帆のニュースが映った。整列する若者達の童顔や、溌渕と錨が巻き揚がる前甲板の光景が消えると、場面はすでに海風の中に船首を廻そうとしている白い四摘横帆船(パーク)の遠景に変って、すぐに終った。水と空の間、遥かうすみどり色に烟って僕の瞼にだけ残ったもの、あれは確かにメエル・エスプリだったろう。
瞬間、なにか詩のようなものが僕に閃めいたが、それは言葉にならないで翔け去った。ただ胸は、昔の若さを失わぬ愛人の姿を垣間見たあとのように、切なかった。