2018年8月27日
この太陽のかがやき(3) 小野十三郎
このごろは、どんな山間僻地へも観光バスの足跡到らざるところないほど、日本はすごい観光ブームだ。きれいに鋪装された道路が四通八達している大和など云うまでもない。しかし、そういう現象とは無関係に、この日本人の心のふるさとであるかもしれない大和の風光と、そこにただようている歴史と伝統の香りにひたすらな憧憬と、認識とでも呼ばなければならないほどの強い思慕を寄せている人もまたたくさんいる。歴史家や国文学者や歌人などの中には、大和とそこにあるものを、太陽の光りまでをひっくるめて、すべて私有、独占せんばかりの姿勢をとっている人たちもいるのだ。かっての日本浪漫派詩人の大和へのアプローチの仕方などを想いおこせばいい。大和にはたしかに歌びとたちの心を牽きつけてやまぬものがあり、万葉学者などの探求の対象となるものがなお測りしれないくらい残されているだろう。だからそれはそれで少しもかまわない。また、それは、ある意味で、「ふるさとは遠きにありておもうもの」というその「遠きにありて」ということに通じることにもなるから、勝手に好きなようにやってもらってさしつかえないのである。