2018年10月16日
泥人形(3) 串田孫一
これはかれこれ三十年も昔のことであるが、私は時々この事を思い出す。今は母親としての盛りをすごしているはずのその人のためにも、そんなことは私の方も忘れてしまった方がいいと思いながら、どういうものか往来を歩いている時に、こわれた人形が落ちていたりすると、甦って来る。その現場に居合わせたわけでもなく、ただ勝手に想像したことなのに、どうしてこうも忘れられないのだろう。
最近、若い友達が次々に結婚をして、子供が歩けるようになるとよく連れて遊びに来る。私はそういう時のために、つまらないものでも玩具を少し買っておこうかと思うが、何だかそんなことをしたために、また幼い心を困らせるような場面を見るような破目になったらいやだと思う。ちょっと落しただけで、こなごなにこわれてしまうような玩具は今はない。大体が踏んでも蹴ってもどうということもない作り方をしている。だから今の子供たちは、物をこわして叱られたり、誰も見ていないところで何かをこわして、見付かったらばどうなるだろうと怖い思いをすることだって、きっと少なくなっているだろう。