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2019年4月10日

人生を振り返って(終) 歌集 大き画布 西川敏子より

「おーいこっちこっち」汽車の窓から手をあげ私を呼ぶ夫の声。汽車の入口は超満員。
私はホームから窓をよじ登り夫に引き上げられて、ようやく列車に乗ることができた。
 列車内は復員兵、買い出しの人で通路まで立錐の余地もない。熱海へ着くと「湯の
町エレジー」が街中に流れていた。
 昭和二十四年五月、私達の新婚旅行の光景であり、二人の出発点である。

 私は昭和三年八月四日、父松井真一、母道代の長女として三重県四日市市で生まれた。
 二年後には弟芳夫が生まれ、その後しばらくして、順風満帆な生活は一変した。父が肺結核になり医者から転地療養しかないと言われ、豊川の父の実家へ一時身を寄せたのである。居候の生活は十年間も続き、その間の母の苦労は並ではなかった。

 ようやく実家を出て親子四人の暮らしとなり、その後に、歳の離れた弟和夫も誕生した。
しかし私達家族も戦争に翻弄されていく。

 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争勃発。
 戦争も激しくなり、女学校三年の時に豊川海軍工廠へ学徒動員された。豊川海軍工廠が東洋一の兵器生産工場だったと知ったのはつい最近のことである。

 昭和二十年八月七日、運命の日。
 晴れた日だった。後から振り返ると、その日、厭な予感がしたような気がする。
 午前十時を過ぎた頃「工廠が狙われ、霧しい爆撃機が当方めがけて飛んでくる」との情報で空襲警報のサイレンが鳴り響いた。
 私は、給与課の人達と一旦地下金庫のある防空壕へ入ったが、そこは危ないとのことで、門外の防空壕へ逃げた。
 しかし、どの防空壕も満員状態で私は入口で身を縮めていた。
 その近くにも、爆弾はひっきりなしに落ち「ここも危ない、逃げよう」とその防空壕を飛び出し東に向かって走った。
この防空壕を飛び出したことが、私の生と死を分けた。入口より奥に入れなかったため逃げることができたのだ。逃げる時の足のもどかしさは、まるで夢の中で走る時のようで、言いようもない。
「ザー」と爆弾の落ちる音に、「今度こそ私だ」と思いつつ、訓練で習ったとおり、目と鼻と耳を同時に両手の指で塞ぎ、口を開いて地面に伏せた。何度もそれを繰り返し、口の中が砂だらけになった。無我夢中で走って、やっと辿り着いた森には、運ばれてきた負傷者や病人、看護婦など数十人がいた。
 しばらく呆然としていたが、けたたましい蝉の声で我に返った。「ああ、助かったんだ」と思った。「芳夫は無事だろうか」と急に心配になった。
 幸い、弟は夜勤明けで寮にいて無事のようだと知り合いから聞き、安堵した。
 この日の空襲による死者二千五百人以上、負傷者多数。工廠は壊滅した。
 この惨劇の中、姉弟はどちらも生き残ることができた。人知を超えた大きな力を感じると同時に、亡くなった人のことは決して忘れてはいけないという気持を持った。こうして、昭和二十年八月七日は生涯忘れられない日となった。

 そして八月十五日、天皇陛下の玉音放送で日本は負けたのだと悟り、全身の力が抜けていった。

 終戦の年の秋、女学校が繰り上げ卒業となり、私は洋裁学校へ通うことになった。
 その後、昭和二十四年五月結婚。大家族の嫁となり夫の醸造業を手伝う。多忙であった。
 昭和二十六年に長女説子、三十一年に長男幸孝が誕生。

 夫健一は、大正九年十二月十六日醸造業を営む西川家の次男として、愛知県宝飯郡小坂井村(現愛知県豊川市小坂井町)に生まれた。
 聞いたところによると、子供の頃はこの辺りの方言で。ぼっくう小僧"と言われるいたずらで元気な子供であったらしい。母は三十三歳で亡くなり、その後は、残された六人の弟妹の面倒をみながら父の家業を手伝い勉強をした。
昭和十七年一月兵役により、満州国黒河省法別拉へ出征。

 昭和二十年八月十五日終戦。
 誰もが予想もしなかったソ連軍による連行により、無蓋貨車にてシベリアへ送られる。
抑留中は筆舌に尽し難い重労働と厳寒で大勢の戦友が倒れ、命を失っていった。幸い、夫は命あって故国へ帰ることができた。運にも恵まれたと思うが、根が丈夫な男だった。
 昭和二十三年十一月二十七日、ナホトカ港より信洋丸にて舞鶴港へ帰還。桟橋を渡った時は、涙が盗れたと言う。
 家業の醸造業を継ぎ、翌年五月結婚。
 長年地域に貢献しボランティア精神に溢れ、人望の厚い人であった。
 平成十四年二月二十六日永眠(享年八十一歳)。



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