2019年5月16日
和歌の誕生はコトバからかココロのヒビキからか 齋藤玉男
小林秀雄が「考へるヒント」の中で、コトバに即して和歌論を扱つて居る。彼は文芸批評家であるが歌人ではない。歌人でないからその和歌論は自由で奔放で、恐らく汎く俳旬を始め内外の韻文一般までを取込んで対象とした論策でもある訳であらう。
ここで彼は直接の立論の資材として本居宣長の「国歌八論斥非再評の評」を引用して居る。これは宣長の「国歌八論」に向つて成人が「国歌八論斥非」と題する批判文を公表したのに対し、別の人が宣長に同調して再評を寄せたのに対し、宣長が批評者の誤を匡し併せて同調者の自説に就いての理会未到のケ条を誨へたものと受取れる。当時の復古主義者対反論者の意気込みが窺へるだけでも貴重な史料である。
ここで秀雄は先づ宣長の「姿は似せがたく意は似せ易し」の一句を取上げ、姿とはコトバの姿のことで、普通なら「口真似はやさしいが心は知り難い」と言ふのと逆な表現であると指摘するところから出発する。これに反論が出るのは言はば当然で、或る人が「近頃世の才子どもが古を学ぶと称して、古歌の姿詞を真似て得たりとするが、その作の姿詞は古歌に似て居るが、心は俗に近く古とは似てもつかぬ。一見して似せものと判る。笑止なことである」と言つたのに対し、宣長は「試みに予の万葉風の作を万葉歌の中に交へて置いたら、君には弁別が出来まい。そしてこれが予の歌よと誨へれば折り返してそれだから似せ歌だと言うだろう。それだからこそ予は姿詞の髣髴たるまでに似せんに、もとより意を似せんこと何ぞ難からんと言ふのである」と答へて居る。当時の漢学者は挙って大義と言ふ標語を掲げ、「右を学ぶとは古の大義を学ぶことに外ならない。この大義に通ぜぬ今世薄俗の心で、古歌の姿詞のみに拘泥し、古歌の似せものを作つて欣んで居るとは片腹痛い」と衆口一致抗論したが、これはコトバの真諦に悟入した体験のないものの僻論である。(君等は大義を漢語から直訳して理解して居るが、漢語の韻(*)までを移しては居まい。韻をはつしてコトバが味得出来るか〔これは筆者の付けたりである〕)。宣長は言ひたいのであろう。「万葉のシラベを真似し真似し尽した究極は、似せものが似せものでなくなる。そこには古とも新とも見別けのつかぬ感動を端的に鑑賞者の心に産み出す二つの相同価値の歌があるだけである。それでよいとする外はあるまい。「意は似せ易し」とはこのことを言ふのである。かくして今世の薄俗な心は誤りなく右の大義と流通することが可能なのである。
秀雄は更に言ふ。意即ち情動は一刻も静止しない不安定なものであるが、コトバはこの不安定をととのへる役目をもつて居る。コトバ就中歌はそれの本有するおのづからなるシラベによつて主動体である心の動作を調整する。これはアリストテレスの説くカタルシス(浄化・潟通)の考へと一脉通ずるかおのづからさであつて、宜長が「古事記伝」に説いて居る「その意も事も言も相称ふ」とは正にここを指したものである。
以上語句は筆者が勝手に入れ替へたが、秀雄の趣意はほぼ伝へ得たと思ふ。途中筆者の補足文の中に偶々韻のことに触れてあるので、少々敷衍を加えておきたい。韻は言ふまでもなくコトバのヒビキであり、漢詩ではことさら厳密な規制があることは周知の通りであるが、和漢ともに従来の韻の概念は狭きに失する嫌ひがあると思ふのは筆者一個のヒガミであらうか。手近かなところで「紫野往き標野往き」の重畳韻の抑揚効果の素晴らしさは改めてあげつらふまではないとして、「大君は神にしませば」などでも韻まででなくとも類韻若しくはc12/2512準韻のヒビキが感じ取られないであろうか。更に言へば漢文においても韻文でない上奏文などに、注意すれば文脉の抑揚に照応して同様な類韻効果が跡づけ得られるやうに受取れるのである。これは筆者の言はばゆきずりの思ひ付きと片付けられなくもない提言であるにしても、もし折あつて大雅の教へを受け得られれば法外の仕合せである。