2019年7月3日
偶感(1) 結城哀草果
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私が作歌をはじめてから、はやくも五十余年の歳月が過ぎたが、かくして会得したことは、短歌は専ら足と眼とに依って、作る芸術であるといふことに尽きる。その足と眼に依る代表的俳人は、松尾芭蕉であり、また歌人の代表は斎藤茂吉であると言って、卿かも過言にはならぬ。しかして芭蕉は元禄二年三月二十七日、江戸深川の芭蕉庵を出発し、門人の河合曽良一人を引率して、奥州各地を専ら徒歩で行脚し、帰途は北陸の景勝を探り、更に美濃から伊勢路に入らうとして、九月六日大垣の如行の家にて旅労れを休めると、門弟集り来って、前後七ケ月、道程六百里の大旅行を喜び合った。この徒歩大旅行から生れた俳文紀行記一巻が、元禄十五年刊行の「奥の細道」である。
この「奥の細道」こそは、芭蕉が専ら足で歩き、眼で見詰めての把握から生れた名著である。かくして芭蕉は元禄三年五月尿前から、鳴子温泉を経て険しき山刀峠を越し、尾花沢に到り、門人鈴木清風宅に逗留したのである。その芭蕉が最上川畔の大石田に催した句会に出席して
五月雨を集めて涼し最上川
といふ句を詠んだ。しかしてこの句の芭蕉直筆を、大石田町の素封家佐藤茂兵衛氏が、今も大切に愛蔵し、また同じ句を刻んだ碑が、同町の古刹の庭に遺ってゐる。