2019年7月26日
時間の密度(5) 杉浦明平
それは、個人の体験だけではなく、人類の歴史的体験でもあるらしい。ギリシア芸術が細部を没しながら感覚的に充実しているのは、文化の少年時代ではなかろうか。日本でなら、万葉時代がそれに当たるだろう。万葉の歌は、大まかだが、きめはこまかい。それどころか
大君は神にしませば天雲の雷の上に庵せるかも
の雷の丘をたずねたら、雑木のパラパラと生えたちょっとした土手にすぎなかった。もっとも、そこに立つと大和盆地が見渡せるが、それにしてもこの人麿の歌からあたえられるイメージとまったくちがう貧弱な高みであった。飛鳥川や天の香具山にしても同様で、実物を見ると、あっけにとられてしまうほど、小さい。(形の美しさはべつである。) にもかかわらず、それらが歌われている歌は、すこしも大げさにも空疏にも感じられぬのは、万葉人の感覚がそのままに歌われているからだろう。むしろ王朝文学の方が、繊細な感覚をもって細かな描写をしているにもかかわらず、いたるところに空隙があって、隙間風がすいすいとおってゆく。王朝貴族はそれだけおとなになっているのであろう。そして個人が少年に二度ともどることができぬように、人類も同じきめのこまかさで芸術をつくるわけにゆかないらしい。実朝が万葉調を用いても、賀茂真淵が万葉を模しても、その肌あいがちがっている。ちっぽけな丘を「天の香具山」だの「天雲の雷」の丘だのと感じえた感覚はまさに幼年少年のものではなかろうか。万葉調はまねしえても、そのように本当に古代人の感覚をもつわけにはゆかないから、真淵らの万葉調は空疏虚大をまぬがれない。これは一般に古典主義の芸術に当てはまろう。