2019年8月9日
小宮豊隆先生(青春の回想の一部)(2) 津村秀夫
私は父母のいる神戸の私宅の洋館のベランダで、赤門失敗の報を受け取って、しょんぼりしていた燗漫たる春の日のことを想い出す。
父はその時、慰めてくれて「大学なんかどこでもよいではないか。要するに大学は自分で勉強するところだから」と云った。
私は庭の桜の咲いたのどかな春の空気の中で、淡くうすい空を見つめながら悲哀をおぼえた。
ぼんやりと東北帝大と云うことが頭に浮んだが、仙台の田舎落ちをすることも心細く、花やかな東京生活にも憧れていた。
九州の南端、薩摩の三年間は私の青春に思いがけない色彩を与えてくれて楽しかったが、だからと云って、今更また田舎の生活はごめんだと云う気持にもなっていた。
その前に、私は上京して、父の寓居となっていた麹町内幸町の家、今の放送会館のちょうど裏手にあった古風な家(この家はむかし川上貞奴の住んでいた家)に滞在しながら、一度は辰野信之先生を私宅に訪ねて相談したことがある。それは一年浪人して、フランス文学科を受験しようかと考えたからである。