2019年8月16日
小宮豊隆先生(青春の回想の一部)(3) 津村秀夫
私は七高で文科乙類(ドイツ語を第一外国語とするクラス)にいたので、フランス語はかいもく知らない。フランス語の素養のない者が東大受験に成功しても、はたしてやって行けるものかどうか。大いに心細かったからだ。
「アテネ・フランセへでも通って、みっちり一年勉強すればいいさ」
初対面の辰野先生は、そう云ってくださったが、どうもこれはふんぎりがつかなかった。
だいたい高校でドイツ語を選んだのも、最初からドイツ文学を志していたからではない。亡父が明治三十五年頃、文部省留学生として一橋大学を出た年に経済学を専攻するため渡独していた因縁だけのものだ。
ミュンヘンとベルリンの両大学で三年を費して帰国した父から、少年の私はさまざまのドイツの話をきいて憧れを持っていたからであろう。
しかしドイツ語で三年間苦しめられてみると、私にはどうも武骨でゴツゴツしたドイツ語が、私の性分に合いそうもなく思われ、翻訳本で親しんだフランス文学のモオパッサンあたりの方が口あたりがよさそうに思われたからである。ことに堀口大学さんの訳詩集「月下の一群」でヴェルレーヌやフランシス・ジャムに惚れこんでいたせいもある。
改めてフランス語を勉強することよりも、先ず「年間の浪人生活が不安で損だと云うのが、亡父の意見でもあった。