2019年8月19日
小宮豊隆先生(青春の回想の一部)(4) 津村秀夫
東大出身でなかった父は、むしろ内心では東大に反感を持っていたのかも知れない。赤門なんかにさして執着を持たなかった。
今考えてみると、当時の高校生が赤門に憧れるのは、あの戦前の東大生の角帽姿にひかれたのかも知れず、案外子供らしい虚栄であったろう。
私は神戸一中から七高へと、先ず少年の憧れのコースを歩んだが、母方の叔父に東大経済学部を優秀な成績で出た秀才がいて、その叔父に強く影響されていたためもあった。
彼は東大生時代からよく制服の角帽姿で神戸の家へ遊びに来たが、卒業の時は森戸辰男さんが一番で、彼が二番の成績だった。
大学と云えば赤門しかないように考え、京都大学ですら魅力をおぼえなかった私は、いわんや仙台や福岡は眼中になかった。むろん、当時の白線帽に取っては慶大や早大のような私立大学は問題外であった。まるで低脳児の行くところのように考えていた。
戦後の慶大や早大は入学試験も相当に激甚で、ましてケイオーの経済や法科は秀才でないと入れないらしいが、四十年前は入学も容易だった。