2019年9月3日
小宮豊隆先生(青春の回想の一部)(15)最終回 津村秀夫
とにかく変てこな大学生が揃っていたが、「春しゃこ」は一番の論客で、しゃべることはうまいが、書くのが至って苦手と云う学生で、左翼運動で警察の臭いめしを食ったこともあった。彼は一番の愛敬者で、いつも水曜会の人々を笑わせた。戦後に、地方大学の学部長にもなった。熊本の五高出身の「孫悟空」は純情だっただけに、貧乏な「器しゃこ」にずいぶんみついでいた。私は彼とは卒業後も親しくしたが、不幸にもある新制大学の教授をつとめているうちに、数年前ガンで他界した。
そのほか「軍艦」と云う渾名のおしゃれの学生や、エティモロギー(語源学)に特別の趣味をもち、記憶力の怖ろしく強いことで「ヒエダノアレイ」とも呼ばれた英文科の学生もいた。学生と云っても、当時は検定試験を受け、高専卒業の資格を取った上で入学して来た苦学の人もあったので、二十五、六才から三十才近い人物もまじっていた。「ノビレ」や「ヒエダノアレイ」は前頭部がその頃から、すでにハゲ上がっていた。
私は卒業まじかになってから、いつか水曜会で発議して、我らも大学を出て十年たったら、謝恩のいみで、小宮先生に妾宅の一軒ぐらい進呈しようと計った。みんなも、そのくらいのことはする義務があると賛成した。
先生は、「妾宅だけじゃ仕様がない。ついでに中味の美人もほしいな」と笑われた。
「それは無理だ」とみんなが拒否した。
妾宅どころか、それから三十有余年たっても、ほとんど何ごともできない有様になってしまった。(40,8,26)