2019年9月4日
アルベール・カミユ 「結婚」 柏倉康夫訳 ティパサでの結婚(1)
まえがき 柏倉康夫
昔から良い作品や文章を読んだとき、感動の証に背筋が震えることがときどきある。その最初の経験が、高等学校のときに読んだアルベール・カミュの『結婚』だった。古文の授業時間に教科書に隠すようにして読んでいて、突然背中がブルッとふるえた。
90ページほどの本には、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」、「砂漠」の4篇の詩的エッセーが収録されていて、冒頭の「ティパサでの結婚」の印象はとくに強烈だった。これらのエッセーに共通するのは、アルジェリアをはじめとする地中海地方に特有の大地、輝く太陽、青い空、吹き渡る風、芳香を放つ色とりどりの花••••こうした世界の美しさを肌で感じつつ、今この時を生きることへの讃歌である。そしてこのためには、何よりも若さとしなやかな肉体を必要とする。
カミュはのちに書く『シーシュポスの神話』のエピグラフに、古代ギリシアの詩人ピンダロスから、「ああ、わが魂よ、不死の生に憧れてはならぬ、可能なものの領域を汲み尽くせ」という言葉を引用するが、この一行こそ『結婚』の内容を要約している。若かった私が深く感動したのも、こうした生き方に共鳴したからに他ならない。
初めて読んでから凡そ65年、窪田啓作、高畠正明両氏の既訳があるが、あえて自分なりの翻訳をこころみた。テクストは1950年刊行のガリマール版によった。
【 本編執筆者 柏倉康夫氏は共立荻野病院理事長 荻野鐵人の高校時代の御友人です 】
ティパサでの結婚(1)
春、ティパサ(1)には神々が住み、神々は太陽とニガヨモギ(2)の香りのなかで語る。海は銀の鎧をまとい、空は真っ青で、廃嘘は花でおおわれ、光は石の堆積の間で煮えたぎる。ある時刻、野原は太陽のせいで黒く見える。目は、睫毛の先でふるえる光と色彩の雫以外のものを捉えようとするが無駄だ。芳香性の植物の豊饒な香りが喉を刺し、並外れた暑さのせいで息がつまる。風景の彼方に、村を取りまく丘陵に発して、確実でしかも重々しいリズムで、海中にうずくまろうとするシュヌア(3)岬の黒い塊を、辛うじて目にすることができる。
訳注
(1)ティパサは、アルジェの西およそ七十キロにある地中海沿岸の小邑で、古代ローマの遺跡がある。カミュは一九三五、六年に、この地をよく訪れた。
(2)ニガヨモギ、原語のAbsintheは酒を意味する場合はアプサント。植物の場合はニガヨモギと訳す。アプサントはニガヨモギ、アニス、ウイキョウなどを中心とした複数のハーブからつくられる。ニガヨモギ自体も強い香りを放つ。
(3)シュヌア、アルジェの西にある山塊。